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**はじめに**
「おみくじ」は、漢字で書けば「御神籤」または「御御籤」で、「御神酒」・「御神輿」などと同じく、「くじ」に「お」と「み」を二重につけた丁寧な言い方で、本来の言葉は「くじ」である。その「くじ」には、「鬮」と「籤」の二字が使われる。しかし、この二字、鬮は「鬭い取り」、籤は「数取り」の義で、本来、「くじ」の意味ではないが、我が国では「くじ」と読まれている。しかし、共に画数が多い漢字なので、「孔子」と宛字されることがあった。
「占い」や「くじ」によって神意を伺うことは、古くから行われていたが、あらかじめ定められた吉凶と文章を引いた数字によって、それを知るという「おみくじ」は、大陸の影響で始まったものであることは間違いないであろうが、その時期ははっきりしない。「観音籤」と言い、元三大師によって始められたという「元三大師御籤」と言い、それは仏教系(観音信仰)で、日本においては天台系である。しかし、我が国においては、当時、神仏習合の時代であったこともあり、社寺双方で用いられていたが、それに対し、遅れて和歌で占う「歌占」系などが現れる。しかし、いずれにしても「占い」であるから、易(八卦)の影響を受けている。【註1】
江戸時代には、「おみくじ函」より振出した、串に書かれた数字(文字の場合もある)、または「賽子」を振って出た数字(同上)によって、「おみくじ本」の内容を誰か(例えば寺の住職)に読んで説明してもらうか、自ら読んだもので、一枚物の「おみくじ札」は、江戸後半期に始まったものと思われる。しかし、「おみくじ」は現在のような手軽なものではなく、厳粛・鄭重なもので、以下に述べるように、それは戦前においてもそうであった。それが、今日のような手軽な占いとなり、各社寺で種々の「おみくじ札」が出されるようになった。【註8】
「おみくじ」の起源
「占い」や「くじ」によって、神意を伺うことは古くからあるが、我が国において、今日のような、引いた番号によって吉凶を占うことは、いつから始まったものであるか、はっきりと示すことはできないが、大陸の影響であることは間違いないであろう。
南宋後期(鎌倉中期)の『釈門正統』に、「百籤は震旦の天竺寺より、百三十籤は越の円通寺より出づ」(原漢文)、と記している。その「百籤」の一つである『観音百籤占決諺解』(貞享四年序、刊)に、「本朝に伝来して所々に之れ有りと雖も世間に流布することは濃州大慈山小松寺の正本を以つて規矩となす」(原漢文)と記し、翌貞享五年の年記のある佚名「元三大師」系の版本(中澤伸弘氏蔵)にも、右、此百籤者、以濃州大慈山小松寺之正本、校正焉と記している【註2】。小松寺は現岐阜県関市に所在する。【註3】
また、『東叡山寛永寺元三大師縁起』下には、天海僧正が戸隠山(現長野県内)にある観音籤を元三大師の影像の前に置き、一心に祈って籤を引くと吉凶を知らせる、という夢を見た。そこで戸隠の御籤と同じ観音籤を寛永寺(現東京都内)に置いた、と記されている【註4】。すなわち、「元三大師御籤(鬮)」は、「戸隠山観音籤」が元だと言っている。元三大師とは、天台座主(延暦寺)十八世良源(慈恵大師)のことで、平安前期の人である。正月三日に亡くなったので、「元三大師」と呼ばれている。
しかし、この元三大師といい、後述の「歌占」の安倍晴明・顕昭といい、仮託であって、真の作者も成立年も不詳である。そこで天海(江戸前期の天台僧、慈眼大師)が始めたか否かは別として、「おみくじ」は、我が国においては江戸前期頃より始まったのではないか、と一般に思われている。
この起源説に対して、司東真雄氏は「天台寺什物の応永銘『観音籤』考」の中で、天台宗山門派の祖、円仁(慈覚大師)が平安初期、唐から請来した中に駱賓王(初唐の詩人)撰の『判一百條』があり、これが「百籤」のことではないかといい、円仁の住んだ比叡山横川の首楞厳院に伝わり、のち、ここに住んだ良源(元三大師)が、『判一百條』をもとに、観音の託宣として籤を伝え、これが「観音籤」といわれるようになったと推論し、「これらから推して、天台寺の応永銘観音籤(後述)の原本は、円仁請来の『判一百條』そのものの写(マ書マ)と断じたいのである」としている。
そして、『戸隠山三所大権現略縁起』(天保十五年奥書)に、「奥院百籤函筒記一□」として、天竺霊(マ観マ(音籤頌一百首籠、捨入信州路戸隠山顕光寺本院御在所者也、応永第二三月日 釈有賢置之と見え、岩手県二戸市の天台寺に、同じ応永十六年銘の「おみくじ函」と、その中に、当時の「串」八十八本が残存しており、「おみくじ函」の銘文は次のようにある。
天竺霊感観音籤一百伝聞、茲籤於東土占減(臧)否、頗多霊験矣、仍以唐本謄竹簡、而奉捨入于八葉山天台寺、只恐布(ママ(烏焉諸訣之乎右占時者、即先誦経咒、焚香礼拝、求絶疑情、致信心、三度取当観察諸吉凶、専二度可用之也 応永十六禩己丑卯月八日 願主沙門白雲道山謹白
右の「串」には、番号と次に記す「観音籤」系と同じ五言四句の籤句、及び吉凶が記されている。但、戸隠山のものも天台寺のものも、「天竺霊(感)観音籤」とあるので、司東真雄氏の推論の如く、『判一百條』が元ではなく、支那の天竺寺が元であろう、と思う。その元はともかくとして、室町中期の応永二年・十六年に、既に「天竺霊感観音籤」があったことを知ることができる。
その普及状況に就いては、貞享元年序の『雍州府志』巻四、「真正極楽寺」(真如堂、天台宗)の項に、この像(元三大師像
)に向ひて引くところの観音籤といへるは、皆信ずとあり、これは延暦寺から伝わったものである。また、翌貞享二年序刊の貞享四年重刊『金龍山淺草寺志』巻五には、「元三大師、百籤を製し、その法今尚衰へず、下谷廣徳寺に安置す。近年、當山(浅草寺)に於て加持籤を行ふ【註5】。俗に元三籤と称し、人信じて引くもの多し。即是なり」とあり、これも延暦寺から広徳寺を経て浅草寺に伝わったものである。
そして、これら天台系の「観音籤」は、室町中期の応仁の乱(応仁元~九年)の頃、京都から美濃国(岐阜県)の金龍山小松寺(元天台系、後曹洞系)に移り、同寺が、室町末から江戸初期にかけて、これを印刷し、全国に広めたのである。その小松寺の印刷本は次のようにある。
(小松寺大慈山清崇坊誌)右、一名元三慈恵大師也。寛正二年十月十四日夜更、三国の人等、久しく霊跡に参詣し奉るに、忽ちにして大慈山出でて異像を示し、衆生無畏にして観音菩薩の籤文を示現す。然りと雖も、近世、諸寺勧進のため、秘法を求むる。即ち依って彼の相模殿下に勧進すべし。又伝聞く、東方の国々、皆これを用う。就中、我濃国郡上郡小松山大慈寺にて特に顕密の法を弘む。応仁二年寅冬八日。治承四年秋八日。これは近世濃国の大慈山に御影堂を建つる時、又、百籤観音堂を建立し、百籤を挙ぐ。以来、方々に弘布し、現に至るまでにおいて、末世の人心を救済し、勧進の利を弘通す。しかして、毎年一月、七日、十五日に相迎ふべし。仍ってこれを応仁の年号をもって、百籤観音と号す。爰元三大師の慈恵を讃仰し、観音の霊籤を印施し、末世衆生の信仰を勧めん。
要するに、江戸中期の天和・貞享期(十七世紀後期)に、「観音百籤」は、「元三大師御籤」として盛んに行われ、全国に広まっていったのである。【註6】
江戸時代のおみくじ
江戸時代の「おみくじ」の形態は現在のものとは異なる。現在のように、一枚物の「おみくじ札」が現れるのは、江戸時代の後期である。「おみくじ函」から振り出された「串」に書かれた数字や文字、または「賽子」を振って出た数字に基づいて「おみくじ本」の内容を誰か(例えば寺の住職)が読んで説明するか、自ら読んだ。この時代、「おみくじ」は厳粛で鄭重なものであり、手軽な占いではなかった。【註7】
江戸時代後半、「おみくじ札」は一枚物になり、手軽に占いを楽しむことができるようになった。この変化により、戦前においても「おみくじ」はまだ厳粛で鄭重なものとして扱われていたが、戦後は手軽な占いとなり、各社寺で種々の「おみくじ札」が出されるようになった。
江户时代に入ると、浅草寺などの寺院で观音签が広く引かれるようになり、庶民の间に広まった。江户时代の庶民文化の中で、观音签は日常生活の一部として定着し、ただの占いだけでなく、日々の生活の指针としても利用された。例えば、仕事や家庭の问题、健康や旅行の运势など、多岐にわたる内容が含まれていた。
戦前のおみくじ
戦前においても、「おみくじ」は厳粛で鄭重なものとして扱われていた。戦後、手軽な占いとして普及し、各社寺で様々な「おみくじ札」が出されるようになったが、戦前の「おみくじ」はその厳粛さを保っていた。
まとめ
「おみくじ」の起源は、大陸の影響を受けたものであり、その正確な始まりの時期は不明であるが、室町中期から江戸前期にかけて、日本に広まっていったことが分かる。江戸時代後期には一枚物の「おみくじ札」が登場し、手軽に占いを楽しむことができるようになった。戦前は厳粛なものとして扱われていたが、戦後は手軽な占いとして普及し、今日のような形となっている。
註:
(1)
これらのことについては、『古事類苑』神祇部四十二に挙げられてゐる。
(2)
同時代の『仏祖統記』巻三十四に、「大士籤」の項があり、それは『釈門正統』の引用であるが、そのままではなく、「天竺ハ百籤◦越ノ円通百三十籤◦」(寛永頃の和刻本による)と、「震旦天竺寺」の「震旦」も「寺」も略してゐるので、「天竺(印度)は百籤」と読める。このことに就いては、註(2)の司東真雄氏も、「天竺から伝わつたというのは、信仰上からの権威づけをした接頭語であらうか」と、誤つた推測をしてゐる。この天竺寺は、『浙江通志』(『大漢和辞典』所引)によれば、浙江省杭県の上・中・下三寺あるうちの上天竺寺のことであらう。『望月仏教大辞典』によれば、上天竺寺は浙江省杭州府銭塘県にあり、今、法喜寺と云ひ、宋英宗代の治平二年(平安中期)、「天竺霊感観音院」の額を賜はつたと云ふ。現浙江省都、杭州市郊外に所在。このことからであらう、戸隠山・天台寺の応永年間の「おみくじ函」の銘文に「天竺霊感観音籤」(戸隠のものには「感」なし)とあり、「観音籤」系の書名にも、「天竺霊感」を冠するものが多い。但、「望月仏教大辞典」に、「百籤」についての記述はない。越の円通寺は不詳。越は春秋戦国時代の国名のことか、浙江省の別名のことか不詳。尚、円通(大士)は観音(菩薩)のこと。上天竺寺も観音信仰の寺である。
(3)
『新撰美濃志』・『関市史』などに、このことは何も触れてゐない。小松寺は天台宗であつたが、江戸前期、潮音道海を中興開山として黄檗宗に転じたと云ふ。潮音は延宝七年、『旧事大成経』を出版したことで著名である。或いは潮音が「正本」を齎したものかも知れない。
(4)
『続天台宗全書』史伝二所収。
(5)
例へば、「新編信濃史料叢書」所収「本坊並三院衆徒分限帳」や、「神道大系」所収の諸資料に、「おみくじ」の起源に関する記事は見えない。
(6)
「おみくじ本」(一)の項参照。
(7)
司東真雄「天台寺什物の応永銘『観音籤』考」(「元興寺仏教民俗資料研究所年報」)昭和五十一年、同五十二年刊。
(8)
『日本国承和五年入唐求法目録』・『入唐新求聖教目録』に見える。
(9)
「神道大系」神社編二十四 美濃・飛騨・信濃国所収。
(10)
現在の存否の神社に問合せた所、現存しないとのことである。
(11)
註(11)に同じ。
(12)
山里純一「〔資料紹介〕金良宗邦文書『観音霊籤』」(「日本東洋文化論集」十五、平成二十一年三月)による。
(13)
この黙頑は、編者であるが不詳。金龍寺についても確定することが出来ない。諸賢の御教示を乞ふ。
(14)
これと、次の『天満宮六十四首歌占御鬮抄』について述べ、両書の初め数丁の影印と釈文を紹介したことがある。拙稿「『おみくじ』の源流に就いて―『歌占本』の紹介―」(「書籍文化史」十七、平成二十八年一月)。
(15)
原本通りではないが、活字本『天満宮歌占』(平成二十三年、亀戸天神社刊)がある。
(16)
平成二十五年十月、東北大学に於ける日本思想史学会での芹澤寛隆氏の発表「法華経と御鬮」の配布資料による。
(17)
太宰府天満宮蔵、未見。一部分のコピーを見たのみである。
(18)
初編三巻三冊。「広文庫」所引による。
(19)
註(19)に同じ。
(20)
戸隠山では各坊が「配札檀家」を持つてゐた(「新編信濃史料叢書」第十四巻所収、「本坊並三院衆徒分限帳」)。
(21)
これは態々記すことでもないかも知れないが、古書目録が天明四年のものに見える様な書方なので、これを以つて、「おみくじ札」の所見が天明に上るか、と思はれないため、念のため記しておくものである。
(22)
ここに紹介した「文久二年」の「おみくじ札」も「おみくじ本」に挟込まれてゐたものである。又、中澤伸弘氏蔵の「貼込帖」(22×32糎、五十面の折帖)には、色々なものが貼られてゐるが、その中に「おみくじ札」が二十三枚貼られてゐる。しかし、これも当時の人が保存のために貼込んだものではなく、後世の収集家が貼込んだものである。
(23)
註(12)・(15)参照。
寺院
寺院(じいん)は、仏像が祀られ、仏教の出家者が起居し、修行を行う施設である。寺(てら)、仏閣(ぶっかく)ともいう。本来は仏教用語であるが、神道を除く諸宗教の教会・神殿を指す語としても広く用いられている。
寺院も神社建築と同様、その多くは日本古来の木造建築である。しかし現代では、建築基準法や消防法の規定上、法定の規模を超える建物は鉄筋コンクリートとすることが義務化されており、昔のように大きな建物を木造とすることができない。そのため、大規模な寺院建造物には鉄筋コンクリート造が増えてきている。また、ビル形式の寺院や近代的モダン寺院も出現するなど概観のデザインも多様化しており、一目では仏教寺院と認識できないものも少なくない。また、寺院の伽藍配置や建物の用途、名称は、神社のように統一されておらず、宗派や各時代によって異なっている。