愛宕神社 ●京都●総本宮
愛宕神社◆歴史大宝年間(701年 - 704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立され
愛宕神社◆歴史
大宝年間(701年
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704年)に、修験道の祖とされる役小角と白山の開祖として知られる泰澄によって朝日峰に神廟が建立されたのが創建とされる。天応元年(781年)に慶俊僧都、和気清麻呂によって中興され、愛宕山に愛宕大権現を祀る白雲寺が建立された。山中には、唐の五台山に模した以下の五寺があったという。その後は神仏習合において修験道の道場として信仰を集め、9世紀には霊山として七高山の1つに数えられた。なお『延喜式神名帳』に「丹波国桑田郡
阿多古神社」の記載があるが、これは亀岡市の愛宕神社(元愛宕)を指すと考えられている。この時代、本殿には愛宕大権現の本地仏である勝軍地蔵が、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗の太郎坊が祀られていた。
江戸時代には勝地院・教学院・大善院・威徳院・福寿院等の社僧の住坊があり、繁栄を見せていた。
明治時代になると神仏分離により、白雲寺は廃絶されて愛宕神社になると同時に、勝軍地蔵は京都市西京区大原野の金蔵寺に移された。1881年(明治14年)には近代社格制度において府社に列格している。明治時代には参詣道の途中にいくつか茶店があり、休憩する者や名物の土器(かわらけ)投げで賑わったという。また、茶店では疲れた客への甘味として、しん粉
(うるち米の粉を練って作った団子) が振舞われていた。
1929年(昭和4年)には京福電気鉄道嵐山本線嵐山駅から愛宕山鉄道の平坦線(普通鉄道)が清滝駅まで通じ、そこから鋼索線(ケーブルカー)で愛宕駅にいく参詣用の路線が完成した。それに伴い、愛宕山にはホテルや山上遊園、スキー場が設けられて比叡山同様の山上リゾート地となっていた。しかし、太平洋戦争中に全線が不要不急線に指定され、1944年(昭和19年)に軍需物質の不足に伴い金属類回収令によりレールを撤去して国に供出した。これによって山上のリゾート地は閉鎖に追い込まれ、再び信仰の山に戻った。
愛宕神社(あたごじんじゃ)は、京都市右京区嵯峨愛宕町にある神社。旧称は阿多古神社。旧社格は府社で、現在は神社本庁の別表神社。全国に約900社ある愛宕神社の総本社である。現在は「愛宕さん」とも呼ばれる。
山城国と丹波国の国境にある愛宕山(標高924m)山頂に鎮座する。古くより比叡山と共に信仰を集め、神仏習合時代は愛宕権現を祀る白雲寺として知られた。火伏せ・防火に霊験のある神社として知られ、「火迺要慎(ひのようじん)」と書かれた愛宕神社の火伏札は京都の多くの家庭の台所や飲食店の厨房や会社の茶室などに貼られている。また、「愛宕の三つ参り」として、3歳までに参拝すると一生火事に遭わないといわれる。上方落語には「愛宕山」「いらちの愛宕詣り」という噺が存在する。
当社は全国に約900社を数える愛宕神社の本社として、京都市最高峰の霊山である愛宕山上に鎮座します。
古くより火伏・防火に霊験のある神社として知られ、京都府内はもとより近畿地方を中心に全国から参拝者が絶えません。
その創祀年代は古く「愛宕山神道縁起」や「山城名勝志」白雲寺縁起によると大宝年間(701~704)に、
修験道の祖とされる役行者と白山の開祖として知られる泰澄が朝廷の許しを得て朝日峰(愛宕山)に神廟を建立しました。
その後、天応元年(781)に慶俊が中興し、和気清麻呂が朝日峰に白雲寺を建立し愛宕大権現として鎮護国家の道場としたと伝えれます。
早くより神仏習合の山岳修業霊場として名高く、9世紀頃には比叡山・比良山等と共に七高山の一つに数えられました。
神仏習合の時代には本殿に本地仏である勝軍地蔵、奥の院(現・若宮社)に愛宕山の天狗太郎坊が祀られ、
境内には勝地院、教学院、大善院、威徳院、福寿院等の社僧の住坊が江戸末期まで存在していましたが、
明治初年の神仏分離令で白雲寺は廃絶、愛宕神社となり現在に至っています。
尚、本地仏であった勝軍地蔵は神仏分離令の際、金蔵寺(京都市西京区大原野)に移され現在も大切にお祀りされています。
また、平成15年9月28日には、愛宕神社御鎮座1300年祭が執り行われました。
616-8458 京都市右京区嵯峨愛宕町1
TEL 075-861-0658
FAX 075-881-7332
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