第一章 世間浄眼品せけんじょうげんぼん


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  • 概要: 第一 寂滅道場会  第一章 世間浄眼品 第一章は、仏がはじめて悟りをひらかれたときの光景である。悟りをひらくや否や、仏は華厳経の教

    華厳経

    第一 寂滅道場会

      

    第一章 世間浄眼品



     第一章は、仏がはじめて悟りをひらかれたときの光景である。悟りをひらくや否や、仏は華厳経の教主ヴィルシャナ仏と一体になられる。仏をとりまくおおくのものどもが、ひとりびとり起ち上って仏をほめたたえるが、それが悟りの内容を暗示する前奏曲になっている。


     このように私は聞いている。
     ある時、仏はマカダ国の寂滅道場におられた。仏が始めて悟りを開かれたとき、大地はきよらかとなり、種々の宝や花をもって飾られ、かぐわしい香りがみちあふれていた。また、はなかずらが仏のまわりをとりまいており、その上に、金、銀、るり、はり、さんご、めのう、しゃこ、などの珍しい宝石がちりばめられ、多くの樹木は、枝葉から光を放ちあって照り輝いている。このような光景は、仏の神通力によって現われたものである。
     仏はこの師子座に坐って、最高の悟りを完成されたのである。仏は、過去現在未来の真理がすべて平等であることを悟り、その智慧の光はすべての人々の体の中に入り、その妙なる悟りの音声は世界のすみずみまでいきとどいている。それはあたかも虚空をいくように、なにものにもさまたげられることがない。仏は平等の心ですべての人々によりそっておられ、すべての人々の行いを知っておられる。その智慧の光は一切の闇を除き、無数の仏の国土を現わし出し、いろいろな方便を用いて人々を教え導かれる。
     仏は、普賢菩薩、とくこう菩薩など数限りのない菩薩たちと一緒におられる。この菩薩たちは、昔ともに修行したヴィルシャナ仏注1の友だちであり、すべてのすぐれた徳を完成している。かれらは菩薩の修行をなしとげており、智慧の眼は明るくすきとおっていて、過去現在未来を洞察している。心はしずかに統一しているが、一たび真理を語りだせば広大な海のように尽きることがない。すべての人々の心の動きを知っており、それに応じてその悩みを除いてやり、また、どんな事柄でもそのなかに入って、よくこれを経験し、捨てるべきものは捨て、取るべきものは取る。すべての仏の世界に遊び、浄土を建設しようという願いを起し、無数の仏を礼拝し、供養し、自分の体は仏のどくで満ち充ちている。
     これらの菩薩たちは仏にかしずいているが、そのほか、仏を護衛するもの、道場を守る神々、大地や樹木の神々、河や海の神々など、あるいはアスラ、ラーフラ、キンナラその他の悪鬼悪神、または三十三天王、天王、そつ天王、らく天王、他化自在たけじざい天王など、無数のものが仏のそばにはべっている。かれらはみな仏の教えを自由自在に用いており、いろいろな方便をもってすべての人々を教え導くことができる。
     その時、これら多くの諸天、諸王、諸菩薩たちが、ひとりびとり仏の神通力をうけて、仏のさとりの世界をほめたたえる。

     そのなかに、楽業光明ぎょうごうこうみょう天王というものがあり、仏の神通力をうけて次のようにほめたたえる。
    「すべての仏の境涯は、とても深くて心で思い測ることはできない。仏は数知れない衆生を教え導いて、究極のさとりへの道を歩ませられる。すべての事物の真実のすがたは、動乱を離れてしずかに統一されてあり、その根柢はなにものにもさまたげられることがない。如来注2は神通力によって、一本の毛の孔の中でも衆生のために、この上もない真理を説きあかされる。如来は、真理の深い意味を洞察し、衆生の能力に応じて不滅の教えを雨のようにふらせ、その為に多くの真理の門が開かれ、寂かに統一されてある平等真実の世界に衆生を導き入れられる。」

     また、だいぼんは仏の神通力をうけて、次のようにほめたたえる。
    「仏身は清らかで、いつも寂かである。たとい十万の世界を照らしても、仏身はすがたがなく、形を現すこともなく、あたかも天空に浮んでいる雲のようである。このように仏身は寂かな統一の境界であって、いかなる衆生も心で測り尽くすことはできない。また如来は、真理の大海を一音をもって説き尽し、少しも余す所がない。如来の妙なる音声は深くて満ち足りており、衆生はそれぞれの人格に応じてその教えをうべなうことができる。三世十方の仏の得させられた所の菩薩行は、すべて如来の体のなかにあらわれているが、如来は少しも意識しておられない。仏身はあたかも虚空の如くであり、窮め尽すことはできない。仏身はすがたがなく、従ってなにものにもさまたげられない。」

     また日光天子は仏の神通力をうけて、次のようにほめたたえる。
    「仏の智慧の光は、量り知れない十方の国土を照してほとりがなく、すべての衆生をしてまのあたり仏を見たてまつらしめる。衆生の世界は大海のように広いが、仏はよくその心を知っておられ、衆生の智慧の海を開発される。如来はこの世にお出ましになり、あまねく十方を照らして残すところがない。如来のほっしんはなにものにもくらべようがなく、この上もない智慧をもって真理を説き示される。如来が衆生の種々の生活のなかで難行苦行されるのは、ひとえに衆生のためである。その時々に応じて如来は、妙なる体を現されるが、それはあたかも満月の如くであり、あるいは虚空に浄い光のさすが如くである。無智のため心の暗くなっている衆生は、盲目の人が目を失ったようなもので、如来は、苦しんでいる衆生のための浄い眼を開いてやり、智慧の燈をかかげて清浄な体を衆生の前に現される。」

     また、毘沙門夜叉王は仏の神通力をうけて次のようにほめたたえる。
    「衆生の罪悪は深く重く、いつになっても仏を見たてまつることができず、迷いの世界に流れ流れて、つぎつぎにおこる苦しみを受けている。仏はこれらの衆生を救うために世にお出ましになられる。仏は十万の衆生の前に現われ、種々の世界における衆生の苦しみを抜かれる。仏は方便を用いて衆生の重罪や悪業のさわりをすべて除き、衆生を正法のなかに安立したもう。仏はかつて測り知れない長い間、修行を続けられたとき、十方一切の仏をほめたたえられたことがあった。そのために高遠にして偉大な仏の名が、十方国土のすみずみまで響きわたった。仏の智慧は虚空のようにほとりがなく、その法身は不思議というほかはない。」

     このほかまだ多くの諸天や諸菩薩たちが、いれかわり立ちかわり、仏の神通力をうけては仏の世界をたたえおわったとき、蓮華蔵荘厳世界れんげぞうしょうごんせかいは六種十八相に震動した。そして一々の世界の諸王は、不思議な供養の雲を現わして仏の寂滅道場の上に雨ふらした。一々の世界のなかで仏が道場に坐しておられ、一々の諸王は、それぞれ仏を信じ、心を統一し、仏道を行じ、悟りを開くことができた。十方一切の世界もまたこれと同様である。


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