第五章 如来光明覚品にょらいこうみょうかくぼん


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  • 概要: 華厳経第二 善光法堂会第五章 如来光明覚品 この章でも、文殊菩薩は、仏のさとりを、くりかえしくりかえし説いてやまない。 そのとき、

    華厳経

    第二 善光法堂会

    第五章 如来光明覚品



     この章でも、文殊菩薩は、仏のさとりを、くりかえしくりかえし説いてやまない。

     そのとき、仏の両足のうちから無数の光明がはなたれて、三千大千世界のすべてのものが照らしだされた。仏は、蓮華蔵の師子座の上に坐したもうている。文殊菩薩をはじめ、多くの菩薩たちが、それぞれじぶんのなかまをつれて、仏のまわりにあつまってきた。

     そのとき、文殊菩薩は次のように仏をほめたたえる。
    「如来は、すべてのものが、あたかも幻のようであり、また虚空のようである、とさとりたまい、その御心は浄くしてへだてがなく、すべての衆生をおさとしになられる。
     仏が、はじめてこの世にお生まれになったとき、そのお姿は、金山のようにうるわしく、満月のように照りかがやいておられた。お生まれになると、すぐ七歩すすまれたが、その一歩一歩に、無量の功徳をおさめ、智慧と禅定をそなえたもうていた。
     仏は、ときには明浄の眼で十方の世界をみそなわされ、衆生の喜ぶのを見て、にっこり笑みたもうた。また、獅子のほえるような威厳のあるみこえで、『天上天下、ただわれひとり尊とし』とのたもうた。
     カピラ城を出て出家なさるときは、すべての束縛をはなれ、諸仏の修行にはげんで、つねに寂滅じゃくめつ注1の世界を願われた。
     そして、ついには道場に坐したまいて、さとりの彼岸にいたり、迷いと煩悩の消滅を体験せられた。
     衆生にたいしては法輪を転注2ぜられ、大悲心をもって教えみちびかれた。最後にはこの世の縁がつきて、涅槃に入られたが、しかし仏は、いまもなお無尽の力によって、自由自在の真理をあらわしたもうている。」

     そのとき、仏の光明が放たれて、無数の世界が照らし出され、世界のありとあらゆるものがあらわれでた。この世界では、仏が蓮華蔵の師子座の上に坐したもうて、十仏世界の無数の菩薩たちによって、とりかこまれているように、一々の世界においてもまた同様である。
     文殊菩薩は、さらに説法をつづける。
    「仏の説きたもう真理は、はなはだ深くて、色もなく形もない。その境界は、すべての煩悩をこえ、すべての我執をはなれて、空寂であり、清浄である。
     さとりの世界は広大無辺であり、そのなかで万象は関連しあって起っている。その一々がともに解脱しており、もともとつねに空寂であって、すべてのまどいをはなれている。」

     文殊菩薩は、このような仏のさとりの世界のなかで、[十種の]菩薩のつとめについて説法する。
    「(1)人間界や天上界における快楽の心をはなれて、つねに大慈心を行じ、すべての衆生をすくいまもれ。これが菩薩の第一のつとめである。
     (2)ひたすら仏を信じ、その心がしりぞかないよう、諸仏を念じていけ。これが菩薩の第二のつとめである。
     (3)とこしえに生死の海をはなれ、仏法のながれにしたがい、清涼の智慧に安住せよ。これが菩薩の第三のつとめである。
     (4)日常の動作のなかに、仏の深い功徳を念じ、昼も夜もおこたるな。これが菩薩の第四のつとめである。
     (5)過去現在未来の無量であることをしり、怠慢の心をおこさないで、つねに仏の功徳をもとめよ。これが菩薩の第五のつとめである。
     (6)自身のありのままの実相を観察し、すべてはみな寂滅していることをしって、や無我にたいする執着をはなれよ。これが菩薩の第六のつとめである。
     (7)衆生の心を観察して、まよいの想いをはなれ、真実の境界を完成せよ。これが菩薩の第七のつとめである。
     (8)無辺の世界に思いをはせ、すべての大海をのみつくすほどの神通じんづうの智慧を完成せよ。これが菩薩の第八のつとめである。
     (9)諸仏の国土の、形あるものと形ないもののすべてをしれ。これが菩薩の第九のつとめである。
     (10)はかりしれない仏国土の、一つの塵を一仏となし、かくしてすべての塵を諸仏となせ。これが菩薩の第十のつとめである。」

     そのとき、仏の光明は、無数の世界を照らしだし、世界のありとあらゆるものがあらわれでた。文殊菩薩の説法は、さらにつづいてゆく。
    「仏は、行じがたいみのりをかたく守って日夜、つねに努力精進し、いまだかつてつかれをおぼえない。
     仏は、もっとも困難な生死の大海をのりこえ、『わたしは、一切の衆生をして、ことごとく生死の海をのりこえさせよう。』と、大音声をあげておられる。
     衆生は、生死のながれにさまよい、愛欲の海にしずみ、無智と迷妄は、十重二十重に、その心をつつみ、まくらなやみのなかで、おそれおののいている。
     衆生は、煩悩のおもむくままに勝手にふるまい、五欲注3によいしれ、妄想をおこして、とこしえに苦しんでいる。
     まよいをはなれきった仏は、衆生の苦悩をことごとくたちきり、世界の超脱者となっておられる。これが大悲の境界(1)である。
     仏は、生死の根本である我執をたち、衆生は、その我執によって生死に流転している。このような衆生を、寂滅の世界へ入らしめようとおぼしめし、最高のみのりをのべたもうている。これが大悲の境界(2)である。
     衆生は、孤独で、たよるものもなく、むさぼり、いかり、迷妄にとらわれている。このように、昼夜、つねに煩悩の火のもえるのをみたもうて、仏は、この苦悩をすくおうとちかわれる。これが大悲の境界(3)である。
     衆生は、まよいまどうて正路をみうしない、よこしまな道にそれて、やみにおちこんでいる。仏は、智慧のともしびをかかげ、諸仏の御法をみせしめようとおぼしめし、仏みずから、そのともしびとなりたもうている。これが大悲の境界(4)である。
     生死の海は、ふかく、ひろく、ほとりがない。衆生は、おぼれ、ただようている。仏は、正法しょうぼうの大船をつくり、衆生をのせて、ことごとく生死の海をわたしたもう。これが大悲の境界(5)である。
     仏の深いみのりをきき信じてうたごうことなく寂滅の世界を観察して、こころにおそれることなく、どのような衆生の境界にも同化される。これが人天の師である。」

     文殊菩薩の説法は、さらにつづく。
    「はかりしれない時のながれを一念のあいだに観察してみると、来るものもなく、去るものもなく、現在もまたとどまらない
     (1)ありのままの実相にしたがい、(2)よくわきまえてそれをしり、(3)究極のすがたを体得すれば、(4)仏の自由自在の力を得て、(5)十方の世界を見ることができる。
     (1)仏に供養してのちに、(2)忍辱注4を行じ、(3)ふかい禅定にはいり、(4)真実のおしえを観察し、(5)すべての衆生をして、よろこんで仏に向かわせる。もしこのような御法を行ずれば菩薩は、(6)すみやかに最高のさとりに到達しよう。
     十方の仏に問いたてまつり、そのこころは、水のたたえられたようにつねにうごかず、仏を信じてしりぞくことなく、日常の動作のなかに仏の功徳をそなえ(身密)、ありとあらゆるものは、有にもあらず、無にもあらず、と体得(空観)する。このように、ただしく観察するならば、菩薩は真実の仏をみたてまつることができよう。」


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