第八章 賢首菩薩品


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  • 概要: 第八章 賢首菩薩品 説法者は賢首げんじゅ菩薩である。前章の菩薩の諸行によって、この章では、種々の功徳が完成されていくことを説いてい

    第八章 賢首菩薩品



     説法者は賢首げんじゅ菩薩である。前章の菩薩の諸行によって、この章では、種々の功徳が完成されていくことを説いている。


     文殊菩薩は、仏法の深い意味を体得している賢首菩薩に問うていうに、
    「仏子よ、わたしは、すでに菩薩の清浄の行を説きおわった。どうか、あなたは菩薩の広大な功徳の意味をお説きください。」
     賢首菩薩が答えていうに、
    「仏子よ、よくおききなさい。菩薩の功徳は、広大無辺で、測りしることができない。
     わたしは、じぶんの力にしたがって、そのなかの一部の功徳を説こう。わたしのべるところは、あたかも大海の一滴のごときものである。
     菩薩が、はじめに菩提心注1をおこすとき、かれは、ひたすらさとりをもとめて動揺することがない。その一年の功徳でさえ、如来がこれを説きたもうとも、ついに説きつくすことはできないであろう。まして、菩薩が種々の行を修めた功徳については、なおさらのことである。十方世界のすべての如来が説きたもうとも、完了することはあるまい。
     いま、わたしは功徳の一部を説くのであるが、それはあたかも、鳥の虚空をふむがごとく、また、大地の一塵にひとしい。
     菩薩が菩提心をおこすには、つぎのようなもろもろの理由がある。
     仏・法・僧の三宝にたいして、深い清浄の信心を有するがゆえに、菩提心をおこす。
     感覚上の欲望や財物をもとめず、世間の名誉をのぞまず、衆生の苦悩をのぞいて、誓ってこのひとびとを救おうとおもうがゆえに、菩提心をおこす。
     深い清浄の信心は、堅固にしてこわれることがない。すべての仏をうやまい、正法および聖僧をとうとぶがゆえに、菩提心をおこす。
     信心は、仏道の根本、功徳の母である。すべての善法を増進しすべての疑惑をのぞいて、無上の仏道を開示する。
     信心は、垢もなく、にごりもなく、たかぶりの心をのぞき、うやまいとつつしみの根本である。
     信心は、第一の宝蔵であり、清浄の手をなって、もろもろの行を受ける。
     信心は、すべての執著をはなれ、深くて妙なる仏法をさとり、ありとあらゆる善をおこない、ついにはかならず仏の国に到るであろう。
     信心の力は、堅固にしてこわれることがない。すべての悪を永久にのぞき、一切の魔境を超えて、無上の解脱道をあらわし出すであろう。
     もし真実の仏法を信ずれば、つねにそれを聞こうとねがい、倦むことがないであろう。もし倦むことがなければ、ついには不可思議の仏法をさとるにいたるであろう。
     もし信心堅固にして、動ずることがなければ、身心ともに明るく、ことごとく清浄となるであろう。
     ことごとく清浄となれば、すべての悪友をはなれて、善友にしたしむであろう。
     善友にしたしめば、測りしれないおおくの功徳を修めるであろう。
     功徳を修めば、もろもろの因果をまなび、その道理をさとるであろう。
     その道理をさとれば、一切の諸仏に守られ、無上の菩提心を生ずるであろう。
     無上の菩提心を生ずれば、諸仏の家に生まれ、一切の執著をはなれるであろう。
     一切の執著をはなるれば、深い清浄心が得られ、すべての菩薩行を実践し、大乗の法をそなえるに至るであろう。
     大乗の法をそなえば、すべての諸仏に供養し、念仏三昧が絶えないであろう。

     仏の安住したもうをしれば、仏法はとこしえに身についたものとなり、かぎりない弁力を得て、無量の仏法を説き出すであろう。
     無量の仏法を説き出せば、すべての衆生を解脱せしめることができ、大悲心は確立するであろう。
     大悲心、確立すれば、甚深の仏法をよろこび、慢心や怠惰をはなれることができよう。
     慢心や怠惰をはなるれば、苦悩の生死しょうじにありながら、すこしもうれいがなく、努力精進することができよう。
     努力精進すれば、もろもろの神通を得て、衆生の生活をしるであろう。
     衆生の生活をしれば、衆生にたいして、法を説き、ものを施こし、親愛のことばをかけ、善行によってみちびき、ともに活動をおなじゅうして、はかりしれない利益をあたえるであろう。
     はかりしれない利益をあたえれば、みずからは無上道に安住し、悪魔のためにやぶれることはないであろう。
     悪魔のためにやぶれることがなければ、不動地ふどうじ注2に到達し、不生不滅の真理を体得するであろう。
     不生不滅の真理を体得すれば、やがて成仏することが約束せられ、諸仏の深い教えをさとり、諸仏のためにつねに護られるであろう。
     不生不滅の真理を体得すれば、やがて成仏することが約束せられ、諸仏の深い教えをさとり、諸仏のためにつねに護られるであろう。
     諸仏に護らるれば、仏の無量の功徳が身にあふれ、その面影は光明に照りかがやくであろう。
     光明にかがやけば、その光明から無量の蓮華があらわれ、その蓮華の一々のはなびらに無量の仏がましまし、衆生を教えみちびいて解脱せしめるであろう。
     衆生を解脱せしむれば、無量の自在力を得、適切なところに身をあらわし、一念のうちに、ことごとく衆生の心をしるであろう。
     一念のうちに衆生の心をしれば、苦悩の生死はとこしえに終息し、すべての煩悩は寂滅し、法身の智慧がそなわって、諸法の実相をさとることができよう。
     諸法の実相をさとれば、すべての自在力をことごとく実現して、すぐれた解脱に達し、十方一切の諸仏から成仏の約束がさずけられ、甘露の法水がその頂きに灌がれる注3であろう。
     甘露の法水がいただきにそそがれると、法身は虚空に充満し、十方世界に安住したものとなるであろう。
     このように菩薩の大行によって、正法はつねに安住し、とこしえに不滅となるであろう。その力は、大海のように広大であり、また金剛のように堅固である。」

    「菩薩は、一念のあいだに十方世界にあらわれ、十方世界のなかで念念に仏道を実現して涅槃に入る。
     あるいは男女のすがた、あるいは天上、人間、竜神のすがたによって、無量の活動をなし、もろもろの音声を出して仏法を説く。
     このように菩薩が十方世界にあらわれて、あますところなきは、海印三昧注4の力のためである。
     また、菩薩は、一切の諸仏を供養し、みずから放つところの光明は不可思議であり、衆生をみちびくこと無量である。このように、すべてに自由自在にして不可思議であるのは、華厳三昧注5の力のためである。」

    「もし菩薩が、一切の仏を供養しようとおもうとき、無量の三昧が生み出されるであろう。
     もろもろの舞踊や音楽、うたごえや詩句をもて、諸仏の功徳をほめたたえ、その音声が十方世界に充ち満ちても、ことごとく菩薩の掌中から自然に出ている。
     また菩薩は、衆生を平安にする三昧にはいって大光明を放っておりこの光明によって衆生を解脱せしめる。
     たとえば、放つところの光明を善現ぜんげんと名づく。衆生この光にあえば、果報をうることかぎりなく、ついには無上道をきわめるであろう。この光によって、仏、法、僧の三宝があらわれ、堂塔や仏像が建立される。
     また、放つところの光明を除愛じょあいと名づく。その光は、すべての衆生をめざめさせ、もろもろの愛欲をすてて、解脱の甘露水をたのしませる。そのとき、仏の解脱の甘露雨は、すべての衆生の上にふりそそぐであろう。
     また、放つところの光明を歓喜かんぎと名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、よろこびに勇んで悟りをもとめ、無上の宝を願わしめる。仏の大慈像が建立され、もろもろの功徳がほめたたえられ、そのために歓喜の光明が完成する。
     また、放つところの光明を愛楽あいぎょうと名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、心はつねに、もろもろの如来、無上の仏法、きよらかな僧団をたのしませる。つねに十方諸仏のまえにつらなり、無上の仏法をわきまえ、無量の衆生を教えみちびいて菩提心を開発し、そのため愛楽の光明が完成する。
     また、放つところの光明を慧燈えとうと名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、諸法は空寂にして、生ずることもなく、滅することもなく、有にもあらず、無にもあらず、と解脱せしめる。たとえば、かげろうや水にうつる月かげのごとく、まぼろしや夢や鏡のなかの影像のごとく、諸法は実体なくして、ことごとく空寂である。このために、慧燈の光明が完成する。
     また、放つところの光明を無樫むけんと名づく。その光は、すべての衆生からむさぼりの心をのぞき、財宝は永久のものではない、としらしめて、すべての執著をはなれしめる。制しがたい物おしみの心をよく統制し、財宝は夢のごとく浮雲のごとし、とさとり、つねによろこんでひとにものを施こし、そのために無樫の光明が完成する。
     また、放つところの光明を忍荘厳にんしょうごんと名づく。その光は、怒れるひとを目ざめさせ、いかりとたかぶりをすて、つねに柔和忍辱注6の仏法を願わせる。性悪にしてしのびがたい衆生を、ことごとくしのばせて仏道を求め、つねに忍辱の仏法をほめたたえ、そのために、忍荘厳の光明が完成する。
     また、放つところの光明を見仏けんぶつと名づく。その光は、臨終のひとをめざめさせ、念仏三昧によって、かならず仏を見たてまつり、いのち終わるときは、仏前に生まれさせる。その臨終を見て念仏をすすめ、仏像をしめして礼拝せしめ、そのために、見仏の光明が完成する。
     また、放つところの光明を法清浄ほうしょうじょうと名づく。一々の毛の孔のなかの、無量の諸仏は、それぞれ不可思議の仏法を説いて、衆生を歓喜せしめる。すなわち、因縁によって生ずるところのものは、実体がない、また如来の法身は身体ではなく、不動にして永遠なること、あたかも虚空のごとくである、と。このために、法清浄の光明が完成する。
     このような光明は、それぞれ無量であり、無辺であり、またその数ははかりしれない。ことごとく菩薩の毛の孔から出ており、一つの毛の孔から放つところの光明が、無量無辺にして、その数がはかりしれないように、すべての毛の孔から出ているところの光明もまた、そうである。これ菩薩の三昧における自在力のためである。
     もし、無量の功徳をおさめ、無数の仏をうやまい供養し、こころつねに無上の仏道をねがいもとめるものは、このような光明に出あうであろう。
     たとえば、めくらが日を見ないのは、日が地上に出ないためではなく、もろもろの目あるものは、ことごとく見て、それぞれの仕事にしたがってつとめを果たすがごとくである。
     この光明もまたおなじで、見るものもあり、見ないものもある。邪見のひとは見ないが、智慧のすぐれたひとはよく見る。」

    「菩薩は、十方の世界に縁あるがゆえに、往復出入して衆生をすくい、ときには三昧に入り、ときには三昧よりたつ。
     あるいは東方にて三昧に入り西方にて三昧よりたち、あるいは西方にて三昧に入り東方にて三昧よりたつ。
     このように、三昧に出入して十方にあまねきは、菩薩の三昧における自在力のためである。
     視覚において三昧に入り色彩において三昧よりたち、色彩の不可思議なるを見る。色彩において三昧に入り視覚において三昧よりたつも、こころ乱れず、視覚は生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
     聴覚において三昧に入り音声において三昧よりたち、もろもろの音声をききわける。音声において三昧に入り聴覚において三昧よりたつも、こころ乱れず聴覚は生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
     このように、嗅覚、味覚、触覚についてもまたおなじである。
     心において三昧に入り、対象において三昧よりたち、もろもろの対象を識別する。対象において三昧に入り、心において三昧よりたつも、心に生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
     少年の身において三昧に入り、壮年の身において三昧よりたち、壮年の身において三昧に入り、老年の身において三昧よりたつ。
     老年の身において三昧に入り、善き女人において三昧よりたち、善き女人において三昧に入り、善き男子において三昧よりたつ。
     善き男子において三昧に入り、比丘尼の身において三昧よりたち、比丘尼の身において三昧に入り、比丘の身において三昧よりたつ。
     比丘の身において三昧に入り、声聞注7の身において三昧よりたち、声聞の身において三昧に入り、縁覚注8の身において三昧よりたつ。
     縁覚の身において三昧に入り、如来の身において三昧よりたち、如来の身において三昧に入り、諸天の身において三昧よりたつ。
     諸天の身において三昧に入り、一切の鬼神において三昧よりたち、一切の鬼神において三昧に入り、一つの毛の孔において三昧よりたつ。
     一つの毛の孔において三昧に入り、一切の毛の孔において三昧よりたち、一切の毛の孔において三昧に入り、一つの毛の先端において三昧よりたつ。
     一つの毛の先端において三昧に入り、一切の毛の先端において三昧よりたち、一切の毛の先端において三昧に入り、一微塵いちみじん注9において三昧よりたつ。
     一微塵において三昧に入り、一切の微塵において三昧よりたち、一切の微塵において三昧に入り、諸仏の光明において三昧よりたつ。
     諸仏の光明において三昧に入り、大海の水において三昧よりたち、大海の水において三昧に入り、虚空のうちにおいて三昧よりたつ。
     このように、無量の功徳あるひとは、その三昧、自由自在にして不可思議である。
     たとい十万一切のもろもろの如来が、その三昧を説きたもうとも、説きつくすことはできないであろう。
     一切の諸仏は、みなともにのたまわく、衆生の業報は不可思議である、と。
     そのとき、自然に空中に声あり。
    『一切の五欲注10は、ことごとく無常である。虚妄なること、水沫のごとくであり、幻やかげろうや水中の月のごとくであり、また、夢や浮雲のごとくである。五欲は、すべての功徳を摩滅するものである。汝は、つねに真実にして清浄な菩薩行を求めよ。』と。
     一切世界の衆生のなかで、声聞の道をねがい求めようとするものは少なく、縁覚を求めようとするものは、さらに少なく、大乗を求めようとするものは、もっとも少ない。
     しかく大乗を求めることは、まだやさしい。大乗の法を信ずることは、はなはだむずかしい。まして、この法をよく受持し、ただしく億念し、教えの通りに行じ、真実に理解することは、もっともむずかしい。
     かりに三千大千世界注11を頭にいただいて、一劫のあいだ供養しても、その功徳はそれほどすぐれているとは言えない。しかし大乗の法を信ずる功徳は、とくにすぐれている。
     かりにたなごころのなかに十仏国をたもち、一劫のあいだ虚空にとどまることは、さほどむずかしいことではない。しかし大乗の法を信ずることは、はなはだむずかしい。
     たとい十仏国の衆生に、一劫のあいだ供養しても、その功徳は、それほどすぐれているとは言えない。しかし大乗の法を信ずる功徳は、とくにすぐれている。
     まして、この第八章を受持するものは、その功徳もっともすぐれている。」

     賢首菩薩がこの章を説きおわったとき、十方の世界は六種に震動した。諸魔の宮殿は、あたかも墨のごとく暗かったが、仏の光明は十方を照らして、すべての悪道をことごとく除き去った。
     一切十方のもろもろの如来は、みな賢首菩薩の前にあらわれ、おのおの右の手をさしのべて、その頭をなでたまい、そのために菩薩の仁徳は無量のものとなった。
     一切の如来は、菩薩の頭をなでおわってほめたたえてのたまわく、 「よいかな、よいかな、真の仏子よ、あなたは、大乗の法をさわやかに説きおわった。わたしは、あなたとともに心からたのしもう。」


    Array

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