第十章 菩薩雲集妙勝殿上説偈品
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概要: 第十章 菩薩雲集妙昇殿上説偈品 本章は、前章とともに、第三トウ利天会の序章である。 十方世界の一々の菩薩は、それぞれ多くの菩薩たち
第十章 菩薩雲集妙昇殿上説偈品
- 本章は、前章とともに、第三トウ利天会の序章である。
十方世界の一々の菩薩は、それぞれ多くの菩薩たちをひきいて、仏のみもとに集まり、
そのとき世尊が、両足の指から、美しい無数の光明を放って、十方世界の宮殿を照らしたもうと、そこに集っている菩薩の大衆が、光明のなかに浮かび上った。
そのとき
「一切の諸仏は、須弥山のいただきの上の、帝釈の、
もろもろの仏子よ、つぎのように知るがよい。如来の威神力によって、一切の世界のなかで、それぞれの人の眼の前に仏がおられる、いま、われわれは、仏が帝釈の妙勝殿に坐したもうを見たてまつる、十方世界の妙勝殿もまた同様である、これは、ひとえに如来の自在力によるのである、と。
一切世界のなかで、志しを立てて成仏を求めるものはまず清浄の願をおこし、菩薩行を修すべきである。
菩薩は、測り知れないほどのながい間修行して、法界においてさわりがなく、十方を照らして愚痴のやみをのぞき、その力は、なにものにくらべようがない。」
また、そのとき一切慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもって次のようにいう。
「測りしれないほどの長いあいだ、つねに如来を見たてまつろうとしても、この正法のなかで、なお真実を見ることができない。妄想にとらわれて
また諸法を観察しても、なおいまだ実相を見ることができない。一切の諸法は生滅していると考え、諸法の観念にとらわれている。
もし、一切の諸法は生ずることもなく、滅することもなく、と悟ることができたなら、諸仏はつねに眼の前に現われるであろう。
諸法はもともと執着もなく、我見もなく、空寂にして真実さえもない。諸仏は、本来空にして思い量ることができない。
一切の諸法は思い量ることができない、と悟るものは、いかなる煩悩のなかにおいても、その心が染められないであろう。」
また、そのとき功徳慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもって次のようにいう。
「一切の諸法は、幻のように
人々は、諸法がすべて空であることを見ないで、つねに無量の苦悩をうけている。それは、正法に対する清浄の眼を完成していないためである。
もし一切の心を知ろうと思うならば、まず正法に対する眼を求むべきである。そうすれば、真実の仏を見たてまつることができよう。
もし仏を見たてまつって、自分の心に執著なければ、諸法の真実をさとることができるであろう。
仏は実にこの真実の法によって衆生を導きたもう。」
また、そのとき善慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもってつぎのようにいう。
「なんと素晴らしいことであろう。無量の如来は、害心をはなれて解脱し、みずから生死を超え、また衆生をして超えしめたもう。
世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。
かりにこの有様を説いても、説きつくすことができない。したがって、智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法の自性が無尽であるから、難思議注2というほかはない。」
また、そのとき真慧菩薩は、仏の神通力をうけて、生死のなかに流転しているのは、仏の御名を聞かないためである。現在の仏は、因縁によってできたものではない。過去、未来の仏もまたそうである。一切の諸法は無相[空・無我]であるというのが、仏の真性である。
もしこのように、諸法の深義を観察するならば、無量の仏の、法身の真相を見たてまつることができよう。
真実なるを真実と知り、真実でないものを真実でないと知る、これが究竟覚であり、仏と名づけられる。
諸仏はこのように
活動の主体も、活動そのものも、ともに得るところがなく、これを求めても不可得である。この不可得こそ、諸仏のよりどころである。なぜなら諸法にはよりどころがなく、覚者には執著がないからである。」
その他、多くの菩薩が、仏の神通力をうけ、あまねく十方世界を観察して偈を唱えた。
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