第十二章 梵行品
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概要: 第十二章 梵行品 この章には、前章における菩薩の十住の位を完成するための十種の清らかな行が説かれている。梵行ぼんぎょうというのは、
第十二章 梵行品
- この章には、前章における菩薩の十住の位を完成するための十種の清らかな行が説かれている。
梵行 というのは、清らかな行という意味である。
正念という天子が、法慧菩薩にたずねて言うのに、
「仏子よ、すべての世界の菩薩たちは、如来の教えにしたがって、在俗の生活をはなれて仏道を学んでいる。菩薩たちは、どのような梵行(清らかな行)によって、無上のさとりに達することができようか。」
法慧菩薩は、正念という天子に答えて言うのに、
「仏子よ、菩薩がひたすら無上のさとりを求めるときに、つぎのような十種のことがらをわきまえねばならない。十種のことがらというのは、①身、②身業、③語、④語業、⑤意、⑥意業、⑦仏、⑧法、⑨僧、⑩戒である。
① 身
第一に、もし身が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行は清らかでなく、真実でなく、にごっており、けがれており、垢にそまっており、また、身体にうごめいている無数の虫である、と。
② 身業
第二に、もし
③ 語
第三に、もし語が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、音声であり、語ることであり、舌の動き、唇歯のふれあうことである、と。
④ 語業
第四に、もし
⑤ 意
第五に、もし意が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、思惟や判断の作用であり、夢のなかの意識作用であり、また、想起することである、と。
⑥ 意業
第六に、もし意業が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、寒熱、飢渇、苦楽、憂喜などの心の感受である、と。
⑦ 仏
第七に、もし仏が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、五蘊注7のそれぞれを仏であるとなすのか、三十二相や
⑧ 法
第八に、もし法が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、寂滅を法であるとなすのか、涅槃を法であるとなすのか、不生を法であるとなすのか、不可説や
⑨ 僧
第九に、もし僧が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、
⑩ 戒
第十に、もし戒が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。戒場を戒であるとなすのか、清浄を戒であるとなすのか、戒師を戒であるとなすのか、剃髪、法服、乞食を戒であるとなすのか、と。
以上のように、菩薩は十種のことがらを観察すべきである。
また、過去はすでに消滅し、未来はまだ起らず、現在は空寂であって、はたらく主体も、果報を受ける主体もないと知れば、つぎのような問題が生ずるであろう。梵行とは一体なんであるか、それはどこにあるか、有であるのか、無であるのか、かたちのあるものか、かたちのないものか、精神的なものか、精神的でないものか。
菩薩は、この問題に対して正しく念じてさわりがなく、過去、未来、現在のことがらは、あたかも虚空のごとく平等で、二相なしと観察する。
このように観察する菩薩の智慧は、広大にしてへだてがなく、一切のことがらにおいて執著しない。これを菩薩の梵行と名づける。
【如来の十力】
また、さらにすすんで菩薩は、つぎのような十種の智を行ずべきである。これは、如来の
このような如来の十力は、深遠にして量り知れないものである。菩薩がもしこの十力を行ずれば、おのずから大慈悲心は養われ、寂滅の世界にありながら、しかも衆生を捨てず、無上の働きをしめしながら、しかもその果報を求めず、一切のことがらは、あたかもまぼろしのごとく、ゆめのごとく、いなずまのごとく、ひびきのごとくであることが知られる。
かくして菩薩は、すみやかに一切諸仏の功徳を得るであろう。しかし実は、はじめて志しをおこすときに、すでに無上のさとりは完成しているのである。
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