第十三章 初発心菩薩功徳品


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  • 概要: 第十三章 初発心菩薩功徳品 初発心しょほっしんというのは、第十一章に説かれた十住の第一住であり、はじめて悟りへの心をおこすという意

    第十三章 初発心菩薩功徳品



     初発心しょほっしんというのは、第十一章に説かれた十住の第一住であり、はじめて悟りへの心をおこすという意味である。本章は、この初発心菩薩の功徳が広大無辺であることを説いている。


     帝釈天が法慧菩薩に問うていうのに、
    「仏子よ、初発心の菩薩は、どれだけの功徳を完成しているであろうか。」
     法慧菩薩が答えていうのに、
    「仏子よ、その道理は深遠であって、知りがたく、信じがたく、さとりがたく、説きがたく、わきまえがたい。しかしわたしは、仏の神通力をうけて、あなたに説こう。
     仏子よ、たとえばあるひとが、東方無数の世界の衆生を長いあいだ供養して、その後に五戒注1を行ぜしめる。また、東方の世界のごとく、四方、八方、十方の世界の衆生にも、同じようにする。どうであろう、このひとの功徳は、多いと思うか。」
     帝釈いうのに、
    「仏子よ、もろもろの如来のほかには、このひとの功徳をかぞえ立て得るものはいないであろう。」
     法慧菩薩、帝釈にむかっていうのに、
    「仏子よ、このひとの功徳がいかに多くても、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分の一、千分の一、百千分の、億分、百億分、千億分、百千億分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほとの分の一にも、及ばないであろう。
     仏子よ、またあるひとが、十万無数の世界の衆生を長いあいだ供養して、その後で十善注2を行ぜしめる。また長いあいだ供養した後で、四禅を行ぜしめる。このようにして、四無量心注4、四無色定注5を行ぜしめ、さらに、預流、一来、不還、阿羅漢の、それぞれの位を得しめ、最後に、縁覚注6のさとりを得しめる。どうであろう、このひとの功徳は、多いと思うか。」
     帝釈いうのに、
    「諸仏のほかには、このひとの功徳をことごとく知っているものは、いないであろう。」
     法慧菩薩、帝釈にむかって言うのに、
    「仏子よ、このひとの功徳がいかに多くても、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分、千分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほどの分の一にも、及ばないであろう。
     仏子よ、なぜかというと、一切の諸仏は、十方無数の世界の衆生を長いあいだ供養するために、世にお出ましになったのではない。また、無数の世界の衆生をして、五戒、十善、四禅、四無量心、四無色定、預流、一来、不還、阿羅漢、縁覚の、それぞれの道を行ぜしめるために、世にお出ましになったのではない。
     一切諸仏が、はじめて菩提の心をおこしたもうたのは、仏の種をたやさないためであり、すべての世界はおのずから清浄であることを知るためであり、すべての衆生をすくい、さとりを開かしめようとおもうためであり、すべての衆生の煩悩、そのなごり、また心のうごきを知るためであり、すべての衆生が、ここに死し、あそこに生まれるのを知るためであり、また、一切諸仏の平等の世界を知るためである。
     仏子よ、またつぎのようなたとえをひこう。あるひとが、一刹那に無量の世界を通過するほどの神通力をもって、気も遠くなる位の長い時間のあいだ、東方に向って進んでも、なお世界のはてに到ることができない。第二のひとが、さきのひとのあとをついて、さらに長い時間のあいだ、東方に向って進んでも、やはり世界のはてに到ることができない。このようにして、第三、第四、ないし第十のひとが、東方に向って進んでも、同じようにそのはてに到ることができない。この東方のように、十方の世界においても、都合百人のひとが、それぞれの方向に向って進むとする。
     さのさい、かりに十方世界のそれぞれのはてに到ることができたと仮定しても、初発心の菩薩における功徳の量を知ることはできないであろう。
     なぜならば、初発心の菩薩は、限られた世界の衆生のために、菩提心(さとりへ向う心)をおこしたのではない。
     十方無辺の世界の実情を知り、その世界の一切の衆生を救おうとおもうがために、菩提心をおこしたのである。
     さらに、小なる世界はすなわち大なる世界であると知り、大なる世界はすなわち小なる世界であると知り、広い世界はすなわち狭い世界であると知り、狭い世界はすなわち広い世界であると知り、一の世界はすなわち無量の世界であると知り、無量の世界はすなわち一の世界であると知り、無量の世界は一の世界に入ることを知り、一の世界は無量の世界に入ることを知り、けがれた世界はすなわち浄い世界であると知り、浄い世界はすなわちけがれた世界であると知り、一本の毛の孔のなかで一切の世界を知り、一切の世界のなかで一本の毛の孔の性質を知り、一の世界より一切の世界が生み出されることを知り、一切の世界はあたかも虚空のごとくであると知り、一念のあいだに一切の世界をことごとく知りつくそうとおもうがために、菩薩は、無上のさとりに向うこころをおこしたのである。
     仏子よ、またつぎのようなたとえがひかれる。あるひとが、神通力をもって、一刹那に無量の世界における衆生の種々ののぞみを知ることができる場合に、気も遠くなる位の長い時間をかけても、なお東方の一切世界における衆生ののぞみを知りつくすことができない。このように、第二、第三、ないし第十のひとが、そのあとをうけついで時間をかけても、なお東方世界の衆生ののぞみをことごとく知ることができない。また、十方の世界の衆生についても同様である。
     しかしかりに、十方無辺の世界における衆生ののぞみを、ことごとく知りつくすことができたと仮定しても、なお、初発心の菩薩における功徳の量を知ることはできないであろう。
     なぜならば、初発心の菩薩は、限られた世界の衆生ののぞみを知ろうとおもうために、菩提心をおこしたのではない。
     菩薩が無上のさとりに向う心をおこしたのは、一切衆生の、果てしのないのぞみの大海を知りつくそうとおもい、また、ひとりの衆生の欲は、一切衆生の欲であることを知ろうとおもい、また、一切の欲は一欲であり、一欲は一切の欲であることを知ろうとおもい、また、如来の種種の欲の力をそなえようとおもい、また、善あるいは不善に対する欲、世間あるいは出世間に対する欲、大智の欲、清浄な欲、さえられない智慧の欲、さえられない智慧を有する仏の解脱の欲などを、ことごとく知りつくそうと思うためである。
     仏子よ、あるいはまた、衆生の、感覚器官、希望、方便、心の動き、諸業、煩悩などを知る同じようなたとえがひかれる。
     仏子よ、あるいはまた、つぎのようなたとえもひかれる。あるひとが一刹那に、東方無辺の世界に活動している諸仏、およびその一切衆生を、うやまい、ほめたたえ、礼拝し、尊重し、また、種々なそなえものやかざりで荘厳するほどの神通力をもって、気も遠くなる位の長い時間をかけるとする。このようにして東方世界と同じく、十方世界の諸仏および一切衆生を供養することができたとしたら、仏子よ、どうであろう、このひとの功徳は多いとおもうか。」
     帝釈こたえていうのに、
    「ただ仏のみが、このひとの功徳を知りたまい、ほかのものはとうてい知ることはできないであろう。」
     法慧菩薩いうのに、
    「仏子よ、このひとの功徳を、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分、千分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほどの分の一にも及ばないであろう。
     初発心の菩薩が、菩提心をおこし終ると、無限の過去から活動してきた諸仏の、さえられない智慧を知ることができ、無限の未来に向って活動しようとする諸仏の功徳を信ずることができ、現在の、ありとあらゆる諸仏の説きたもう智慧を知ることができる。
     またこの菩薩は、三世一切の諸仏の功徳を、信じ、うけとり、行じ、さらに身をもって体験し、ことごとくその諸仏の功徳と等しいものとなる。
     なぜならば、初発心の菩薩が菩提心をおこすのは、つぎの理由にもとづくからである。すなわち、この菩薩は、一切諸仏の性質をたやすまいとおもうために、また、大慈悲心をもって一切世界の衆生を救おうとおもうために、また、一切世界の衆生の、けがれや浄さの生ずる実情を知ろうとおもうために、また、一切衆生のこころのうごきや煩悩のなごりをことごとく知ろうとおもうために、また、三世の諸仏の無上のさとりを知ろうとおもうために、また、三世の諸仏の智慧力を養い、その無辺の平等の智慧を得ようとおもうために、この菩薩は、無上のさとりに向う心をおこしたのである。
     この初発心の菩薩こそ、じつは仏なのである。この菩薩は、三世諸仏の境界と等しく、如来の一心と、無量の心と、三世諸仏の平等の智慧とを得ている。
     この初発心の菩薩は、つねに、三世の諸仏および諸仏の法、一切の菩薩、縁覚、声聞、およびその法、世間出世間の法、衆生および衆生の法などを離れずに、もっぱらさとりを求め、その智慧はさえられることがない。」
     そのとき、仏の神通力により、また、初発心の菩薩の功徳を説く力によって、十方無辺の諸仏の世界は、六種に震動した。そして天のはな、天のかおり、天のかずら、天のたからが、雨のようにふりそそぎ、微妙な音楽が、自然にかなでられた。
     そのとき、十方無辺の世界の諸仏が、おのおの、その身を法慧菩薩の前に現わしたもうて、この菩薩にいわれるのに、
    「なんとすばらしいことであろう。仏子よ、あなたはよく、初発心の菩薩の功徳を説かれた。われら十方無辺の諸仏もまた、ことごとく初発心の菩薩の功徳を演説している。
     あなたが初発心の菩薩の功徳を説いたときに、十方の衆生は、みな初発心の菩薩の功徳を得て、無上のさとりへ向う心をおこしたのである。
     われらはいま、その衆生に約束する、かれらは、かならず未来世に、それぞれ十方において同時に成仏するであろう、と。
     われらは、あまねく未来の菩薩のために、この初発心の法を守り伝えるべきである。」
     このように法慧菩薩が、娑婆世界の須弥山のいただきの上で、初発心の法を説いて、衆生を教えみちびいたごとくに、十方無辺の、はかることもできず、教えることもできず、考えることもできないほどの、もろもろの世界のなかでも、初発心の法を説いて、衆生を教えみちびいている。そしてこの法を説くものは、ことごとく法慧と名づけられる。
     それは、仏の神通力により、また、仏の本願力により、また、智慧の光明があまねく照らすことにより、また、第一義をさとることにより、また、法はこのように自然であることにより、また、もろもろの菩薩は喜びにあふれていることにより、また、諸仏の功徳をほめたたえることにより、また、諸仏の平等なるを知ることにより、また、法界は一にして二なきをさとることによるがためである。

     そのとき、法慧菩薩は、あまねく十方世界を観察し、衆生のまよいやけがれを除いて、ひろく解脱を得させようと思うがゆえに、また、みずからの深くて清浄な功徳を現わしだそうとおもうがゆえに、仏の神通力をうけて、つぎのように偈をのべる。
    「初発心の菩薩は、一切衆生のなかで、つねに大慈悲をおこし、いかりのおもいを離れて、利他の心をならい、その慈光は十方世界を照らして、衆生のためのよりどころとなり、諸仏はことごとく、この菩薩を守り念じたもう。
     この菩薩の信心を、はばむことはできない。あたかも金剛のごとくに堅固であり、つねにもろもろの如来のみもとにおいて、恩を知り恩にむくゆる。
     菩薩は、仏の智慧を成就して、そのおもいにへだてがなく、あきらかに真実の世界をさとり、こころは寂滅にして、虚妄をはなれている。
     その信力は、しずかにやすらい、智慧の力は、清らかに成就している。
     未来のはてをつくしても、衆生に力をささげ、ついには解脱を得しめようと思い、はてしなき生死のなかで、うまず、たゆまず、いかなる地獄の苦しみを受けても、衆生のために力をつくす。
     一本の毛の孔に、十方の世界を見る、その世界は、微妙に荘厳せられ、諸仏、諸菩薩は、ことごとくここに集りたもう。
     もし、十方世界の三世一切の諸仏を見たてまつろうとおもい、また、はかり知れない甚深の功徳を得ようとおもい、あるいはまた、一切衆生のはてしない生死の苦しみを滅しようとおもうならば、まさに誓願をたてて、すみやかに菩提心をおこすべきである。」


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