第十四章 明法品
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概要: 第十四章 明法品 本章は、第三会の最後の章である。前章で、初発心の菩薩の功徳が説かれたが、この章では、初発心の功徳を得た後の菩薩は
第十四章 明法品
- 本章は、第三会の最後の章である。前章で、初発心の菩薩の功徳が説かれたが、この章では、初発心の功徳を得た後の菩薩は、いかなる仏法を行ずべきか、ということが説かれている。説法者は、やはり法慧菩薩である。
そのとき、精進慧菩薩が法慧菩薩に問うて言うのに、
「仏子よ、初発心の菩薩は、このように量り知れない功徳を手に入れ、そのすがたは、威厳に満ちており、愛欲のともづなを離れて、諸仏のやすらいたもうところにやすろうており、その志ざすところは、無上のさとりの世界の完成に向っている。
では、この菩薩は、どういう法を行ずれば、その功徳はますますすぐれ、もろもろの如来はことごとくよろこび、この菩薩の清浄な大行と大願とが完成されるのであろうか。
どうか仏子よ、わたしたちのために、この仏法をお説きください。よろこんで拝聴しようとおもいます。」
そこで法慧菩薩は、精進慧菩薩に言うのに、
「仏子よ、よくこの問題を問うてくだされた。この仏法は、衆生を安楽にし、衆生に大きな利益を与えるところの、はなはだ深い菩薩の大行である。
仏子よ、あなたは真実の智慧にやすろうており、大精進の力をもって、ただひたすら行じ、ついに不退転注1の位に到達して、世俗界をとびこえている。あなたが、いま問うているところは、まさに如来の世界である。
仏子よ、よくきき、よくお考えください。わたしは、仏の神通力をうけて、あなたのために少しく説こう。
【怠惰をのぞく十種の法】
仏子よ、この菩薩はすでに発心の功徳を得ているから、まさに、無智のやみをはなれ、もろもろの怠惰なこころをのぞくべきである。
菩薩には十種の法があって、怠惰なこころをのぞくことができる。すなわち、[1]こころを浄めて戒律をたもち[持戒清淨]、[2]ぐちをやめて菩提心をきよめ[遠離愚癡淨菩提心]、[3]へつらいのこころを捨てて衆生をあわれみ[捨離諂曲哀愍衆生]、[4]よき行いにはげんで不退転の位を得[勤修善根得不退轉]、[5]つねに寂けさを願うて、在家出家すべての凡夫をはなれ[常樂寂靜遠離在家出家一切凡夫]、[6]世俗の楽しみを心にかけず[心不願樂世間之樂]、[7]ただひたすらもろもろのすぐれた行をならい[專精修習諸勝善業]、[8]小乗の教えを捨てて菩薩の道を求め[捨離二乘求菩薩道]、[9]つねに功徳をこころがけて汚されることがなく[常習功徳心無染汚]、[10]みずからよく自分の本分をわきまえる[善能分別自知己身]。
これが怠惰な心をのぞくところの十種の法である。
【清らかな十種の法】
仏子よ、菩薩は、さらに進んでつぎの十種のきよらかな法を行ずる。すなわち、[1]教えられたとおりに修行し[修行念智成就=正確には「智の成就を念じて修行し」か]、[2]おもいのままが智慧にかなうようにし[常樂求法心無厭足]、[3]もろもろの怠惰なこころを捨てて甚深の仏法にやすらい[捨離調戲諸放逸行]、[4]つねに仏法を願い求めてうむことがなく[安住甚深微妙善法]、[5]心に聞くままに真実の世界を見[隨所聞法得眞實觀]、[6]たくみな智慧をうみだして仏の自由自在な世界に入り[具足出生巧妙智慧能入佛自在]、[7]心つねに寂かでまだ散乱したことがなく[心常寂定未曾散亂]、[8]たとい好悪のことを聞いても、あたかも大地のごとくに心は動揺せず[聞好聞惡心無憂喜。猶如大地]、[9]上中下の衆生を見ても、ことごとく仏の想いをなし[等視衆生。上中下類悉如佛想]、[10]師匠、善知識、出家者、菩薩などを、うやまい、供養し、一念一念にこころがけて、一切の智慧を所有するがごとくになる[恭敬供養和尚諸師及善知識菩薩法師。念念次第如一切智]。
これが、菩薩の十種の清らかな法である。
仏子よ、菩薩は、このように努力して、念々の智慧をおさめ、方便を捨てず、心によりどころを求めず、争いのない世界に入り、無量無辺の仏法をことごとくわきまえ、かくして一切の諸仏をよろこばせる。
【一切諸仏をよろこばせる十種の法】
仏子よ、菩薩は、十種の法を行じて、一切の諸仏をよろこばせる。すなわち、[1]自分の行ずるところを努めて決して退くことがなく[所行精勤而不退轉]、[2]身命をおしまず[不惜身命]、[3]世俗の利益を求めず[不求利養]、[4]一切の仏法を修めてもあたかも虚空のごとくに執著せず[修一切法猶如虚空]、[5]方便の智慧によってすべてのことを観察して法界と等しくなり[巧方便慧觀察諸法等同法界]、[6]一切を分別しながら心によりどころを求めず[分別諸法心無所倚]、[7]つねに大願をおこし[常發大願]、[8]清らかな智慧の光を完成し[成就清淨忍智光明]、[9]衆生のすべての損得を知り[善知一切損益諸法]、[10]行ずるところの仏法がことごとく清浄である[所行法門皆悉清淨]。
これが、一切の諸仏をよろこばせるところの十種の法である。
【菩薩が安住する十法】[玉城訳では省略。書き忘れか]
漢訳: 佛子。菩薩復安住十法。能令一切諸佛歡喜。何等爲十。安住不放逸。安住無生法忍。安住大慈。安住大悲。安住滿足諸波羅蜜。安住菩薩清淨之行。安住滿足無量大願。安住巧方便。安住一切力。安住一切法。猶如虚空無所依止。佛子。是爲菩薩安住十法能令一切諸佛歡喜。
[私訳: 仏子よ、菩薩は十種の法に安住し、一切の諸仏をよろこばせる。すなわち、[1]不放逸、[2]無生法忍、[3]大慈、[4]大悲、[5]もろもろの波羅蜜に満足すること、[6]菩薩の清浄行、[7]無量大願に満足すること、[8]巧みな方便、[9]一切力、[10]一切法 のそれぞれによりどころなく虚空のごとく安住する。これが、一切の諸仏をよろこばせるところの十種の法である。]
【すべての境地を完成する十種の法】
仏子よ、つぎに菩薩は、十種の法を行じて、すみやかに菩薩のすべての境地を完成する。すなわち、[1]心はつねにもろもろの功徳を行じようと願い[心常樂行諸功徳事]、[2]彼岸にいたるすべての道を修め[行大莊嚴諸波羅蜜道]、[3]智慧は明るく到達して迷わず[智慧明達不隨他語]、[4]つねに善知識にしたしみ[恒不遠離眞善知識]、[5]つねに努力して退くことなく[常修精進而不退轉]、[6]仏心をうけとってもろもろの仏法を持ちつづけ[善取佛意受持諸法]、[7]すべての善を行なって心にうれいなく[行諸善根心無憂?(→不明。情報求む)]、[8]智慧の光はあまねく一切の事物をてらし[以大乘莊嚴而自莊嚴明利慧光普照一切]、[9]すべての境地の仏法にやすらい[九者安住一切諸地法門]、[10]三世の諸仏の正法に同化する[同三世佛善根正法]。
これが、菩薩のすべての境地を完成するところの十種の法である。
仏子よ、この菩薩は、それぞれの境地に安住し終って、種々の方便を用い、得るところの深い智慧にしたがい、みずからの宿業、境界、地位にしたがい、一切のすぐれた仏法をことごとくわきまえ、しかも、すべてのことがらにおいて執著することがない。なぜなら、すべてのことがらは心にもとづいているからである。
菩薩が、このように明らかに観察すれば、すべての菩薩の境地を、わが身にそなえることができるであろう。
菩薩が心におもうに、
『わたしは、すみやかにすべての菩薩の境地を完成しよう。わたしが、それぞれの境地において、教えの通りに行ずるとき、無量の功徳を得るであろう。無量の功徳を得おわって、しだいに仏の境地にすすもう。仏の境地に到りおわって、仏のはたらきをなそう。』と。
このゆえに菩薩は、つねに努力して仏法を行じ、方便を捨てず、こころにうれいなく、大いなる威厳にみちて、菩薩の境地に安住するのである。
【菩薩の行いを清らかにする十種の法】
仏子よ、つぎに菩薩は、十種の法を行じて、菩薩のおこないをきよらかにする。すなわち、[1]一切をなげうって衆生のねがいをみたし[悉捨一切滿衆生意]、[2]戒律をたもっておかすことなく[持戒清淨無所毀犯]、[3]忍ぶべきを忍んで尽きることなく[具足忍辱無有窮盡]、[4]方便を用いて退くことなく[勤修方便而不退轉]、[5]無智をはなれてつねに三昧に入り心みだれず[離癡正念常定不亂]、[6]すべてのことがらを明らかに認知し[分別明了一切諸法]、[7]すべての行を完成し[具足成滿一切衆行]、[8]功徳をとうとぶ心は、あたかも山王のごとく[功徳尊重心如山王]、[9]一切衆生のために、みずから清涼の地となり[爲一切衆生作清涼池]、[10]一切衆生をして諸仏の法に同化せしめる[令一切衆生同諸佛法]。
これが、菩薩のおこないをきよらかにするところの十種の法である。
【菩薩の行を清浄でもっとも勝れたものにする十種の法】[玉城訳では省略。書き忘れか]
漢訳: 佛子。是爲菩薩行十種法悉能清淨菩薩諸行。佛子。菩薩摩訶薩。如是修行清淨之行。復得十種轉勝妙法。何等爲十。一者他方諸佛皆悉護念。二者修習長養超勝善根。三者安住如來巧密方便。四者常樂親近依善知識。五者安住精進修不放逸。六者分別諸法非總非別。七者安住具足無上大悲。八者觀法如實出生智慧。九者能善修行巧妙方便。十者一切方便觀如來力。佛子。是爲菩薩十種清淨轉勝妙法。
[私訳: 仏子よ、菩薩はつぎの十種の法を行じて、菩薩のおこないをきよらかにする。すなわち、[1]他方諸仏をことごとく護念し、[2]すぐれた善を行ないつづけ、[3]如来の巧みで密かな方便に安住し、[4]常に善知識に親しみ、[5]常に努力し怠ることなく、[6]すべてのことを纏まっているのでもなく分かれているのでもないと認知し、[7]無上の大悲を具えるに安住し、[8]如実に現象を観察して智慧を発揮し、[9]巧妙な方便をよく行い得て、[10]一切の方便で如来力を観る。仏子よ、これが、菩薩の行を清浄でもっとも勝れたものにする十種の法である。]
【十種のきよらかな願い】
仏子よ、菩薩には、十種のきよらかな願いがある。すなわち、[1]衆生の徳を完成せしめて心にうれいがないことを願い[願成就衆生心無憂?(←不明。情報求む)]、[2]よい行いをのばし、仏国をきよめることを願い[願長養善根嚴淨佛刹]、[3]すべての如来をうやまい、供養することを願い[願恭敬供養一切如來]、[4]身命をおしまずに、正法を守ることを願い[願不惜身命守護正法]、[5]種々の智慧や方便によって、衆生がことごとく諸仏の国に生まれることを願い[願以種種諸智慧門悉令衆生生諸佛刹]、[6]菩薩不二の法門注2や、仏の限りない法門に入って、すべてのことがらを認知しようと願い[願諸菩薩入不二法門入佛法門分別諸法]、[7]仏を見たてまつろうとおもうものをして、ことごとく見ることができるように願い[願令一切所欲見佛悉得見之]、[8]未来を尽すところの限りない時間を、一瞬のごとく感ずるように願い[願盡未來際一切諸劫如須臾頃]、[9]普賢菩薩の願いを、みずから身につけようと願い[願具足普賢菩薩所願]、[10]すべての種類の智慧をきよめようと願う[願淨一切種智之門]。
これが、菩薩の十種のきよらかな願いである。
【十種の修行】
仏子よ、菩薩は、さらに進んで、十法を修行して、すべての願いを果たす。その十法とは、[1]心につかれもいといもうれいもさびしさもなく[生大莊嚴心無憂?(←不明。情報求む)]、[2]もろもろの菩薩を念じ[轉向勝願念諸菩薩]、[3]十方の仏国土にことごとく往生しようと願い[所聞十方嚴淨佛刹悉願往生]、[4]未来をおしきわめ[究竟未來際]、[5]一切衆生の徳を完成しようとおもい[究竟成就一切衆生滿足大願]、[6]はかり知れない長い時間のなかに安住しながら久しい感じがなく[住一切劫。不覺其久]、[7]いかなる苦においても苦をおぼえず[於一切苦不以爲苦]、[8]いかなる楽においてもこころを執著せず[於一切樂心無染著]、[9]比類のない大いなるさとりを認知しようとする[悉善分別無等等解脱] (玉城訳では、ここに [10][得大涅槃無有差別=究極の悟りを完成する]が抜けている。書き忘れか)。
これが、すべての願いを果たすところの菩薩の十法である。
仏子よ、菩薩はいかにして、その求めに応じて衆生を教化するのであろうか。
この菩薩は、衆生にとって適切な方便を知り、衆生の宿業の因縁を知り、また、衆生が心におもうているところを知る。そして、それに応じて煩悩をのぞく方法を教えるのである。
むさぼりの多いものには肉身の不浄をおもわせ、腹立ちの多いものには慈悲をおもうことを教え、ぐちの多いものにはすべてのことは因縁によっていることを知らせ、なにごとにも執著するものには一切は空であることを教え、おこたりがちなひとには努力を行ずることをすすめ、我慢のつよいものには一切は平等であることをおもわせ、自分の心をまげて人にへつらうものには、菩薩の心は寂かでなにごとにも執著しないことを教える。
このように、もろもろの煩悩に対しては、無量の教えがこれに応ずるのである。
菩薩は、分別の智慧をよくめぐらし、教えの意味をよくのべつたえ、ものの順序をたごうことなく、すべてのことがらは破滅すべきものでありながら、真理の世界においては消滅するものがないことを教え、衆生の疑いをのぞいて、ことごとく真理を喜ばしめ、その能力に応じてもろもろの功徳を教え、ついに如来の大海に入らしめるのである。
菩薩は、このように、すべての衆生をみちびき、そのこころは寂かで、乱れたことがなく、つぎのような十の波羅蜜注3をそなえている。
【十波羅蜜】
[1] 第一に、一切の衆生のために、精神的、物質的なすべてのものを与えて、これに執著することがない。これが「施波羅蜜注4」である。
[2] 第二に、すべての戒律をたもちながら、たもっているという意識がないから、これに執著しない。これが「戒波羅蜜」である。
[3] 第三に、いかなる苦痛にも耐えしのび、
[4] 第四に、努力精進してつねに怠ることなく、不動のこころをもって、決して退くことがない。これが「精進波羅蜜」である。
[5] 第五に、いかなる欲望にも執著せず、次第に禅定に入って、あらゆる煩悩をやきつくし、やがて無量の三昧を生じて
[6] 第六に、諸仏のみもとで、法を聞いてよくささえ、もろもろの善知識にちかづき、うやまい、こころに倦怠をおぼえることなく、諸法を正しく観察して、真実の禅定に入り、すべての偏見をはなれて真理の海をわたり、如来の
[7] 第七に、世間のさまざまなすがたを示して衆生をみちびき、そのこころばえに応じて身をあらわし、いかなるはたらきにも執著することなく、あるいは凡夫の身となり、あるいは聖人の身となり、あるいは生死をあらわし、あるいは涅槃をあらわし、すべての境地に入って、衆生を目覚ましめる。これが「方便波羅蜜」である。
[8] 第八に、すべての衆生を完成せしめ、すべての世界を荘厳注7し、すべての如来を供養し、諸法の真実をさとり、修行して法界の智慧をそなえ、すべての仏国土をあらわし、諸仏の智慧を体得する、これが「願波羅蜜」である。
[9] 第九に、大心力によってもろもろの煩悩をはなれ、大信力によってなにものにも負けず、大悲力によって行のうところ平等であり、弁才力注8によってすべて衆生をよろこばせ、神通力によってすべての衆生をまもる。これが「力波羅蜜」である。
[10] 第十に、むさぼり、はらだち、愚痴のつよいひとびとを知り、一念のなかで衆生の心のはたらきを知り、一切諸法の真実を知り、諸仏の深い智慧力に到達し、あまねく一切の道理をわきまえる。これが「智波羅蜜注9」である。
仏子よ、菩薩はこのように、もろもろの波羅蜜をきよめ、もろもろの波羅蜜を完成し、衆生のむかうところにおうじて法を説く。むさぼりのつよいひとには、欲をはなれよ、とおしえ、はらだちのはげしいひとには、平等観をおしえ、よこしまな見解のひとには、因縁観をおしえ、小乗をねがうひとには、寂静の行をおしえ、大乗をねがうひとには、大乗を荘厳することをおしえる。
そのむかし、菩薩がはじめて悟りに向うこころをおこしたとき、多くの衆生が悪道におちていくのを見て、菩薩は、つぎのように大獅子吼した。
『わたしは、衆生のこころの病を知り、その病に応じて、衆生におしえ、ついにこれを目覚ましめよう。』と。
菩薩は、このような智慧をそなえて、無量の衆生を救っている。
仏子よ、また菩薩は、三宝注10をさかんにおこして、とこしなえに絶えないようにしている。
すなわち、菩薩は、衆生をみちびいて菩提心をおこさせる。このために、仏宝の絶えるときがない。
菩薩は、つねにすぐれた法を開示している。このために、法宝の絶えるときがない。
菩薩は、つねに作法をまもり、教えを身につけている。このために、僧宝の絶えるときがない。
また菩薩は、すべての大願をほめたたえている。このために、仏宝の絶えるときがない。
菩薩は、因縁の道理をわきまえ、これを説法している。このために、法宝の絶えるときがない。
菩薩は、
また菩薩は、仏の種子を衆生の田地におろし、さとりの芽を出させている。このために、仏宝の絶えるときがない。
菩薩は、身命をおしまずに、正法をまもっている。このために、法宝の絶えるときがない。
菩薩は、大衆を統御して、倦むことを知らない。このために、僧宝の絶えるときがない。
仏子よ、菩薩は、智慧のともしびによって、無智のやみをのぞき、慈悲の力によって、もろもろの魔軍をくだし、
仏子よ、菩薩は、このように無量の法を修行して、次第に身につけ、ついには如来の境地に到達する。
無量の国において正法をまもり、大師となって如来の法をささえ、大衆のなかで深法をのべつたえ、容貌は端正で、その声色はことにすぐれ、一言をのべるごとに、多くの衆生をよろこばせ、適切にみちびき、こころの目を開かせて、智慧の世界に入らしめる。
菩薩は、このように多くの方便によって、あまねく衆生のために法の蔵をひらき、いまだかつて倦怠のこころを生じたことがなく、大衆のなかにあって少しもおそれず、たれも菩薩の智慧をやぶることができない。
菩薩は、次第にすべての法のすがたを識別し、大悲心によって、すべての衆生をきよめ、またたのしませ、師子の座において、すぐれた弁舌をもって、ひろく衆生のために甚深の法を説いている。」
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