第十八章 十無尽蔵品
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概要: 第十八章 十無尽蔵品 本章は、前章とおなじように、第四会の本論にあたり、ここでは、十種の蔵を説き、それぞれの蔵が無尽であることをあ
第十八章 十無尽蔵品
- 本章は、前章とおなじように、第四会の本論にあたり、ここでは、十種の蔵を説き、それぞれの蔵が無尽であることをあらわしている。説き手は、まえと同様、功徳林菩薩である。
功徳林菩薩は、もろもろの菩薩たちにむかって言うに、
「仏子よ、菩薩に十種の蔵があり、三世諸仏の説きたもうところである。
十種の蔵とはなにか。信蔵、戒蔵、
①【信蔵】 第一に、菩薩の「
この菩薩は、一切諸法は、空であると信じ、一切諸法は、形態がないと信じ、一切諸法には、これをつくる主体がないと信じ、一切諸法は、不生注1である、と信じている。
もし菩薩が、このような信心を完成すれば、たとい、諸仏、衆生、法界、涅槃界などの、不可思議であることを聞いても、心におどろきをおぼえない。また、たとい、過去世、未来世、現在世の、不可思議であることを聞いても、心におどろきをおぼえない。
なぜかというに、菩薩は、諸仏のみもとにおいて、ひたすら、信心堅固で、くずれることがないからである。
その仏は、尽きることのない、ほとりのない智慧を、そなえておられる。
しかも、十方世界のなかで、三世無数の諸仏が、世にお出ましになり、十分に、仏のはたらきを終えられて、涅槃に入りたもうている。
諸仏の智慧は、増すこともなく、減ることもなく、生ずることもなく、滅することもない。
菩薩は、このような無辺無尽の信蔵を完成すれば、如来の大力に乗ってすすみ、すべての仏法をまもり、菩薩の一切の徳をやしない、如来の一切の徳にしたがい、一切諸仏の方便から生まれている。
この信蔵は、決して退くことのない信、乱れることのない信、こわれることのない信、執著することのない信、如来本性の信である。
これが、菩薩の無尽の信蔵である。
- この菩薩は、種々の戒を成就する。すなわち、
- ① 一つには、饒益戒である。菩薩は、衆生のために働き、衆生を安楽にする。
② 二つには、不受戒である。菩薩は、外道の戒を受けないで、三世諸仏の平等の戒をまもる。
③ 三つには、無着戒である。菩薩は、いかなる世界の戒にも執著しない。
④ 四つには、安住戒である。菩薩は、いかなる戒をもやぶることなく、清浄にして、疑いも悔いもない戒を成就する。
⑤ 五つには、不諍戒である。菩薩は、つねに涅槃に向う戒にしたがい、この戒のために、衆生を悩ますことはしない。菩薩が戒をたもつのは、ただ衆生の利益をおもい、衆生をよろこばせるためである。
⑥ 六つには、不悩害戒である。菩薩は、戒をたもつことによって、衆生をなやませたり、呪術を学んだりすることはない。なぜかというと、菩薩は、衆生を救いまもるために、戒をたもつからである。
⑦ 七つには、不雑戒 である。菩薩は、かたよった見解をはなれ、ただ因縁を観察して、清浄の戒をたもつ。
⑧ 八つには、離邪命戒である。菩薩は、ただ清浄の戒をたもって、ひたすら仏法をもとめ、一切の智慧を成就しようとおもうだけである。
⑨ 九つには、不悪戒である。菩薩は、みずからたかぶって、『わたしは、戒をたもっている。』とはいわない。また、戒を犯すひとを見ても、これをいやしみ、ののしって、なやますことはしない。ただ、一心に戒をたもつだけである。
⑩ 十には、清浄戒である。菩薩は、傷害、ぬすみ、よこしまな性関係、虚言、悪口、二枚舌、むさぼり、いかり、愚痴、よこしまな見解、などから離れて、ひたすら、戒をたもつ。
『もし衆生が、戒をおかすならば、それは、衆生の
これが、菩薩の無尽の戒蔵である。
③【慚蔵】 仏子よ、第三に、菩薩の「慚蔵注3」とはなにか。
この菩薩は、みずから、自分の過去世をおもうのに、
『わたしは、限りない昔から、親、兄弟のなかで、罪をおかしてきた。あるいは、相手をあなどって、みずからたかぶったり、あるいは、心が乱れて、節義を失ったり、あるいは、腹をたてて、親しみがなくなったり、このように、迷いまどうて、いろいろな悪をつくってきた。一切衆生もまた、そのとおりで、もろもろの罪をおかしている。どうして、これでよいことがあろう。
そこでわたしは、みずから罪をはじ、さとりを完成し、また、衆生のために真実の法を説き、衆生をして罪をはじさせ、さとりを完成させよう。』と。
これが、菩薩の無尽の慚蔵である。
④【愧蔵】 仏子よ、第四に、菩薩の「愧蔵」とはなにか。
この菩薩は、みずから恥じておもうに、
『わたしは、昔から、感覚の対象や、妻子兄弟や、財産や宝物などを、むさぼりもとめて、満足することがなかった。こうしたことは、やめなくてはならない。』と。
また、つぎのようにおもう。
『衆生は、毒心をいだいて、たがいに傷つけあっている。それを、すこしも恥としない。このために、迷いのふちに沈んで、はかり知れない苦悩をうけている。三世の諸仏は、ことごとく、これを見通しておられる。
わたしは、自分の行為をみずから恥じて、さとりを完成し、ひろく衆生のために、この真理を説いて、仏道を完成せしめよう。』と。
これが、菩薩の無尽の愧蔵である。
⑤【聞蔵】 仏子よ、第五に、菩薩の「聞蔵」とはなにか。
この菩薩は、多くの真理を聞く。
たとえば、菩薩は、或ることがあるから、他のことがあり、或ることがないから、他のことがない、或ることがおこるから、他のことがおこり、或ることが滅するから、他のことが滅する、という相対関係を知っている。
あるいはまた、菩薩は、この世界における真理、この世界を超越している真理、形のある世界の真理、形のない世界の真理などを知っている。
菩薩は、つぎのようにおもう。
『衆生は、迷いの世界に、流れ流れて、仏道におさめることを知らない。
そこでわたしは、つとめはげんで仏道をまなび、一切諸仏のおしえをたもって、無上のさとりを完成し、また、ひろく衆生のために真実の法を説いて、無上の仏道を完成せしめよう。』と。
これが、菩薩の無尽の聞蔵である。
- この菩薩は、十種の施しをなす。すなわち、
修習施法 、最後難施法、内施法、外施法、内外施法、一切施法、過去施法、未来施方、現在施法、究竟施法である。 - ①【修習施法】
一つに、菩薩の修習施法とはなにか。
菩薩は、どんな珍品も、御馳走も、みずから執著しないで、すべてのひとびとに、めぐみほどこす。
ほどこしたのちに、もし残りがあれば、みずからそれを食べて、つぎのようにおもう、
『わたしが、食事をするのは、わたしのからだのなかの、およそ八万ほどの虫のためである。わたしの身が、安楽であれば、かれらもまた、安楽であり、わたしの身が、うえにくるしめば、かれらもまた、うえにくるしむであろう。』と。
このように、菩薩が食事をするのは、からだのなかの虫のためであって、その味をむさぼるのではない。
また、菩薩は、つぎのようにおもう。
『わたしは、ながいあいだ、自分の身のために、たべもの、のみものを、むさぼり求めていた。わたしは、すみやかに、この身をはなれることに、つとめはげもう。』と。
これが、菩薩の修習施法である。 - ②【最後難施法】
二つに、菩薩の最後難施法とはなにか。
もし菩薩が、種々の御馳走や、衣服、その他の生活の具を、自分のために用いれば、長命をたもって、快適な人生をおくることができるのに、反対に、もしこれを、すべてのひとびとにほどこせば、菩薩は、困りはてて、命をはやめるであろう。そうした場合に、ひとりの乞食があらわれて、菩薩に、すべてを所望してきた。
菩薩は、そのとき、こころにおもうよう、
『わたしは、これまで、命をおとしてきたことは、測り知れないが、ひとを救うために、自分の命を捨てたことは、まだ一度もなかった。幸いに、御馳走や衣服を得たことは、この上もないよろこびである。このさい、わたしは、命をすて、一切をささげて、衆生のためにつくし、大いなる施しを完成しよう。』と。
これが、菩薩の最後の行じがたい施しである。 - ③【内施法】
三つに、菩薩の内施法とはなにか。
菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その面 は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかって、いうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、孤独で、だれもかまってくれるものがない。このままでいたら、かならず死んでしまうでしょう。
大王よ、どうか、わたしをおたすけください。もしわたしが、あなたの王身を得ることができれば、わたしは、あなたの手足、血肉、脳髄などをもちいることができましょう。どうぞ、お慈悲をもって、わたしを、おあわれみください。』と。
菩薩は、そこで、つぎのようにおもう。
『わたしの身も、やがては、乞食とおなじ運命になるであろう。もし死んでしまえば、なにひとつ施しをすることもできなくなる。では、すみやかに、この身を捨てて、かれのいのちを救おう。』
とこころに念じ、菩薩は、よろこんで、わが身を乞食にほどこした。
これが菩薩の内施法である。 - ④【外施法】
四つに、菩薩の外施法とはなにか。
菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その面 は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかって、いうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、やがて、貧苦のなかで、いのちをおわるでしょう。
これにひきかえ、大王は、すべての楽しみを身につけておられる。
大王よ、どうか王位を、わたしに施してください。わたしは、天下をおさめて、王の幸福を満喫しましょう。』と。
菩薩は、そこで、つぎのようにおもう、
『富貴は、はかないものである。それは、やがて、貧賎になれば、ひとに施しをすることもできず、その願いをかなえてやるわけにもいかない。
では、すみやかに、王位をすてて、乞食のこころを満足させよう。』と。
そこで、菩薩は、よろこんで、王位をあたえた。
これが、菩薩の外施法である。 - ⑤【内外施法】
五つに、菩薩の内外施法とはなにか。
菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その面 は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかっていうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、ひそかに、大王の生活をねがっています。
大王よ、どうか、あなたの王身と、王位と、天下とをわたしに、おさずけください。』と。
菩薩は、そこで、つぎのようにおもう、
『わが身と財宝とは、ともにはかないもので、やがてほろびていくであろう。
わたしは、いま、年もわかく、力もさかんで、天下の富を有し、しかも、乞うものが、目の前にあらわれている。
では、このはかないもののなかで、永遠の真実を求めよう。』と。
菩薩は、このように、こころに念じ、よろこんで、内外のものを捨てて、乞食に施した。
これが、菩薩の内外施法である。 - ⑥【一切施法】
六つに、菩薩の一切施法とはなにか。
菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その面は、ことにすぐれ、香りのたかい湯に浴し、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかっていうに、
『大王のお名前は、あまねく、世界に聞こえています。わたしは、自分の国で、王の名前をきき、はるばるやってきました。
大王よ、どうか、わたしの望みにまかせて、この気持を満足させてください。』と。
そして、その乞食は、王の、国や城、妻子、一族、手足血肉、頭脳など、すべてを求めてきた。
そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『すべての自分に親しいものは、会えば、やがてわかれねばならない。いま、ひとに施さねば、そのねがいを遂げてやることはできないであろう。
わたしは、すみやかに、貪愛のこころをはなれ、すべてを捨てて、ひとのためにつくそう。』と。
菩薩は、このように、こころに念じ、よろこんで、乞食に、すべてを施した。
これが、菩薩の一切施法である。 - ⑦【過去施法】
七つに、菩薩が過去の施法を実行する、とはなにか。
菩薩は、過去の諸仏、菩薩のおこないや功徳をきいても、それに執著せず、妄想もおこさない。
ただ、ひとびとを、教えみちびくために、身をあらわして、ひろく道を説き、衆生をして、仏法を完成せしめようとおもうだけである。
また菩薩は、たとい、十方世界をたずねて、過去の諸法を観察しても、その実体を得ることができない。そこでかれは、つぎのようにおもう。
『過去の諸法を、ことごとくはなれよう。』と。
これが、菩薩の過去の施法を実行することである。 - ⑧【未来施方】
八つには、菩薩が未来の施法を実行する、とはなにか。
菩薩は、未来の諸仏、菩薩のおこないや、功徳をきいても、そのすがたをえがかず、こころに執著せず、その仏国に往生しようともおもわず、味わうこともなく、厭うこともなく、心をおさめて、散乱することがない。
ただ、衆生を教え、みちびき、衆生をして、仏法を身につけさせようと願って、真実を観察するだけである。
この真実の法は、その所在があるのでもなく、ないのでもなく、内にあるのでもなく、外になるのでもなく、遠くにあるのでもなく、近くにあるのでもない。
これが、菩薩の未来の施法を実行することである。 - ⑨【現在施法】
九つに、菩薩が現在の施法を実行する、とはなにか。
菩薩は、四天王、三十三天、夜摩天、兜率天などのさまざまな天上の世界、あるいは、声聞、縁覚の、功徳を身につけていることをきいても、そのこころは、まどわずみだれず、うれいをいだかず、つねに寂かで、執著するところがない。
菩薩は、ただつぎのようにおもう、
『すべての現象は、ことごとく夢のごとくであり、すべてのおこないは、みな真実でない。衆生は、そのことを知らないから、まよいの世界に流転するのである。』と。
菩薩は、衆生のために、ひろく法を説き、衆生をしてすべての悪をはなれて、仏道を完成せしめ、このように、みずから、菩薩の道をおさめて、こころにまどいがない。
これが、菩薩の現在の施法を実行することである。 - ⑩【究竟施法】
十に、菩薩の究竟施法とはなにか。
多くの衆生のなかには、眼、耳、鼻、手足などの、欠けたものがいる。これらのひとびとが、菩薩にむかっていうに、
『わたしどもは、不具者で、薄幸の身です。どうか、おめぐみによって、わたしどもを完全にしてください。』と。
そこで菩薩は、よろこんで、自分のものをあたえた。
そのために、菩薩は、たとい自分が、はかり知れないほどながいあいだ、不具者になっても、一念の悔いをも、おこさない。
ただ菩薩は、みずから、自分の身を観察してみるに、すでに、受胎のときから、不浄で、悪臭をはなち、一片の真実もなく、骨節たがいに組みあって、血肉によっておおわれ、もろもろの孔からは、つねに不浄がながれ、かくして、ついには、しかばねとなる。
菩薩は、このように、わが身を観察して、一念の愛著をも、おこさない。
また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『この身は、もろく、またあやうい。どうして、この身に、愛著を生じよう。よろこんで、ひとびとに施し、そのねがいを満足せしめよう。そしてついには、衆生のこころを開いて、おしえみちびき、ことごとく、清浄の法身注4を得しめ、身心のすがたから、はなれさせよう。』と。
これが、菩薩の究竟の施法である。
⑦【慧蔵】 仏子よ、第七に、菩薩の「慧蔵」とはなにか。
この菩薩は、かたちの世界や、こころの世界の苦悩、その苦悩の原因、その苦悩の消滅した涅槃、苦悩を消滅する方法を、あきらかに知っている。
また、根本無智の苦悩、その原因、その滅した涅槃、消滅の方法をも、あきらかに知っている。
また、声聞、縁覚、菩薩の、それぞれのおしえ、その涅槃をも、あきらかに知っている。
では、菩薩は、どのように知っているのであろうか。
菩薩は、ありとあらゆるものは、ことごとく宿業のむくいであり因縁にしたがって生じている、と知っている。
それゆえに、すべてのものには、我の実体がなく、堅固でなく、真実でなく、ことごとく空である、と知っており、ひろく、衆生のために、真実の法を説いている。
では、菩薩は、どのように説いているのであろうか。
すなわち、『ありとあらゆるものは、毀れるものではない。』と。
かたちの世界、こころの世界は、こわれるものではなく、根本無智も、こわれるものではなく、また、声聞、縁覚、菩薩の、それぞれのおしえも、こわれるものではない。
なぜなら、ありとあらゆるものは、みずから生じたものでもなく、他によってつくられたものでもない、それは、不生であり、不滅であり、施すこともなく、受けることもなく、ことばによって、表しようがないからである。
菩薩は、このような、無尽の慧蔵を完成し、おのずから、究極の道に到達している。
これが、菩薩の無尽の慧蔵である。
⑧【念蔵】 仏子よ、第八に、菩薩の「念蔵」とはなにか。
この菩薩は、無智のやみを離れて、過去の、一生、十生、百生、ないし、はかり知れないほどの多くの生涯や、世界の生成消滅のくりかえしを、こころにおもいうかべる。
また、菩薩は、一仏の名や、ないし、はかり知れないほどの多くの諸仏の名を、おもいうかべ、一仏の出現や、ないし、多くの諸仏の出現を、おもいうかべ、一仏の一説法や、多くの諸仏の多くの説法を、おもいうかべ、一つの煩悩や多くの煩悩を、おもいうかべ、一つの三昧や、多くの三昧を、おもいうかべる。
菩薩の右[つまり上]のおもいには、十種ある。
すなわち、① 寂かなおもい、② 清らかなおもい、③ にごりのないおもい、④ 澄みとおるおもい、⑤ ちりを離れたおもい、⑥ 種々のちりを離れたおもい、⑦ あかを離れたおもい、⑧ ひかりかがやくおもい、⑨ たのしむおもい、⑩ さわりやへだてのないおもい、である。
菩薩が、このおもいをなすとき、いかなる世間も、菩薩のこころを、みだすことはできず、いかなる悪魔も、そのこころを、うごかすことはできない。
菩薩は、諸仏の真理を、こころに堅持し、あきらかに、そのむねをさとり、いまだかつて、あやまったことがない。
これが、菩薩の無尽の念蔵である。
⑨【持蔵】 仏子よ、第九に、菩薩の「持蔵」とはなにか。
この菩薩は、諸仏のところで、一つの経典、ないし、はかり知れないほどの多くの経典をまなび、一字一句も、忘れたことがない。一生のあいだも、忘れず、また、多くの生涯のあいだも、忘れたことがない。
菩薩は、一仏、ないし、多くの諸仏の名を、ききおぼえている。また、一つの世界、ないし、多くの世界の名を、記憶している。また、一つの
これが、菩薩の無尽の持蔵である。
⑩【弁蔵】 仏子よ、第十に、菩薩の「弁蔵」とはなにか。
仏子よ、第十に、菩薩の弁蔵とはなにか。
この菩薩は、深い智慧を完成し、ひろく衆生のために、もろもろの真理を、のべつたえている。
菩薩は、一つの経典の真理、ないし、はかり知れないほどの多くの経典の真理を説き、また、一仏の名、ないし、無数の諸仏の名を説き、また、一つの世界、一つの集会、一つの説法、一つの煩悩、一つの三昧、ないし、それぞれ無数の、世界、集会、説法、煩悩、三昧を説いている。
あるいは、一日に、一句一味の法を説いて、しかも尽きることがない。
たとい、時のながれを尽くすことがあっても、一句一味の説法を尽くすことはできないであろう。
なぜかというに、この菩薩は、十種の無尽蔵を完成しているからである。また、それゆえに、一切の仏法をおさめている。陀羅尼注5をも得ている。
菩薩は、この陀羅尼によって、ひろく衆生のために、仏法をのべつたえ、その妙なる音声は、十方の世界に満ち満ちて、衆生の煩悩をのぞき、衆生をして、ことごとく歓喜せしめる。
菩薩は、すべての音声、言語、文字をきわめ、一切の衆生をして、如来の種子をたやさないようにさせ、仏法をのべつたえるのに、すこしも倦怠をおぼえない。
なぜかというに、菩薩は、大虚空に充満する清浄の法身を、完成しているからである。
これが、菩薩の無尽の弁蔵である。
仏子よ、以上が、菩薩の十種の無尽蔵であり、これによって、一切の衆生は、無上のさとりを完成することができる。」
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