1. 自然科学と神信仰
自然科学は、How (自然法則がいかに成り立っているのか)を究める人間の営みだ。自然科学はなぜ神が存在するのかを問わない(それは信仰の問題だからだ)。自然科学は、普遍的自然法則の内実を物質系、生体系、宇宙の中に探す営みである。また、科学技術は、その知識体系を利用して新しい化成品、機械、電気・電子製品等を造る営みである。
信仰は、Why(天地/宇宙が存在する根拠)に対して創造主の存在を認める生き方だ。初め(根源)があった事、天地を創った創造主の存在を私は信じる。すなわち、「初めに神は、天地を支配する自然法則を定められた」「その自然法則に従って神は天地万物を創造された」と信じる。従って、自然科学の営みと矛盾しない。自然法則は天地創造以来不変だ。そうでなかったならば、自然科学は成り立たない。人間は創造主により宇宙の中に置かれた者として、自然と、他の生物と、人間社会と、また隣人とどのような関わりをもちながら生きるのかを創造主から問われている存在である。これが私の自然科学と信仰の定義であり、違いである。
われわれ人間も水をたたえる希有な惑星・地球上で数十億年もの長い期間の進化の過程
を経て神によって造られ、この宇宙/自然の中に置かれた存在である。
創世記は「神は御自分にかたどって人を創造され、男と女に創造された」と記している。では、「人間が神のかたちにかたどって造られている」とはいかなる意味か? 人間の知的、感情活動も精神性、信仰心も天地創造の神が定めた自然法則からはずれてはいない、ということか?
これは、容易に答えることができない大問題だ。脳科学を初めとする科学や心理学がその答えを求めて行くに違いないが、人間の複雑性と尊厳性を重んじる立場からすると、軽々に答えを出すべきではないと考える。ただし、人間(自分の中)には、神のかたちがあるかのように真実を求める心と、その正反対の悪魔性が潜んでいる事を認めざるを得ない。その事実にたじろぎつつ、なお生きることと死ぬことの意味を問い続けながら生きている存在が人間(私自身)である、と考えている。
このような問いを哲学というのか、あるいは信仰というのか?
哲学であるならば、人間は、哲学的存在である。すなわち、いかに生きるか?を問い続けている存在である。信仰というのであれば、人は天地創造の神との関係の中で、いかに生きているかが問われている存在である。果たして、創造の神の意志はどこにあるのか? 人間は神の意志を知りうるのか? 神によって造られた限界ある存在が人間であり、神の全てを知り得ない不完全な存在が人間である、と私は考えている。だから自然科学があり、知る営みを続けているのだと思っている。しかし、自然科学によって知り得るのは神のなされた業(自然)であって、神ではない。
あなたはどこから来たのか? あなたは今どこにいるのか? あなたを取り囲む世界、隣人、自然
とどのように関わっているのか? あなたは、これから何をめざし、どこに行こうとしているのか?
今から100年前に画家ゴーギャンが、これと同じ問いを絵に表している(http://ja.wikipedia.org/wiki/
ポール・ゴーギャン)。 この問いは時を超え、場所を超え全ての人間に向けられている。この問いを
受け、一人ひとりが、そして人類がどのように答えていくのかが今問われているのではないか。
2:コップ1杯の水クイズ・「コップ1杯(180mL)分の水分子に何らかの印を付けて地球全 体に均一に分散し、その後改めてコップ1杯に水を満たして飲んだとしたら、一人の体の中に印のついた水分子が何個入ることになるか?」(ヒント:水 18 mL= 18 g = 1モル =6x1023個の水分子を含む)。自分で計算し、その結果を前にして何を感じたからを友人と語りあってほしい。答えを言うと、770個。これは何を意味するのか、想像を巡らせてほしい。水が全世界の人を結んでいる、かつて聖徳太子、ニュートンが飲んだ水の一部が私の身体の中にある、歴史と場所を越えて人間同士、全生物と水を共有している、と考えられないか? 水の総量は、地球が誕生して以来ほとんど変わらず、地球上を循環し続けている。水は、地球上に生を受けた全ての生命の中を巡り、今あなたの身体の中にも存在し、すべての生物の生命を支えている。R. ワトソンは、著書「水の惑星」の中で、水は宇宙と私たちを結んでいると言っているが、それは、水が地球上の全ての人の生命と生活を結んでいるという意味でもある。アボガドロ数が分かると、こんな計
算も楽しくなる。
私自身は小さな存在で限られた理性と経験しかない者だが、人間としての限界を自覚しながら「ゴーギャンが抱いた問い」への答えを命尽きる時まで求めて行きたいと思っている。これが私の考える“宗教(religion) ”の原型であり、神に造られた(生命を与えられた)者として神との関係の中に生き、隣人との関係こそ第一の価値と考える生き方の原点である。その上で、科学(私の場合は化学)を通して神が創造した自然のしくみ(不思議)を探求し、自然と関わりながら神から与えられた理性と感性を磨き、生命を全うしたいと
考えている。
2. 神を畏れることは科学のはじめである
1. 神を畏れるとは、人知を超えた偉大な存在(人間の知識、知恵力の及ばない存在)を認めることである。
2. 神を畏れるとは、自分(人間)が今存在し生きているのは自分(人間)の力だけに依らないことを認めることである。生命(肉体と精神)の源と多様な生命体を支えているしくみの不思議さ(正に神秘)を、驚きと畏敬の思いをもって受けとめることである。
3. 神を畏れるとは、自分(人間)が宇宙(世界)の中心にいるのではなく、自然の一部であるという事実を認めることである。
これは、位置的には天文学が教える真理である。思想的には、宇宙・万物との関係において人間が中心に位置しているわけではないという事を認める考え方である。しかしながら、人間は宇宙の中心から遠く離れた所にポツリと放置されているのではなく、同じく中心にいるわけではない存在(隣人、地球上の動植物)との生きた関わりの中に置かれている存在である。そのことを認め、現実との関わりを深め、豊かにし、広くするために生きていく存在であることを自覚することが、神を畏れる者の生き方である。自分(人間)はもともと関わりの中に生きるべき存在としてこの宇宙(世界)におかれている。死とは関わりが絶たれた状態である。孤独感に悩まされることがあっても実際に孤立しては存在できないのが人間である。むしろ孤立状態から脱し、関係を築く方向に向かって生きようとする
ことが人間的である。
一方、自分(人間)のみを肥やし権力を増強することだけに熱中して、あたかも宇宙(世界)の中心に自分(人間)が立っているかのような錯覚に陥る人間は神への畏れを知らない存在である。人間は、人という文字が示すように、物質的にも精神的にも互いに支えられ生かされながら生きるものだからだ。
4. 神は、はじめから宇宙の中心におられ、今も、そして終わりの時まで宇宙の隅々までを見つめ、全ての存在と関わりを持ち続けておられる存在である。 神は、宇宙創世以来100数十億年間、地球誕生以来46億年の時の流れを超え、また、1000個以上の銀河系宇宙の中にある1000億個を越える恒星の一つである太陽系第三惑星・地球上に生きる60数億人の一人である自分とも関わりをもち、「生きよ」と促し、見まもっている。という認識はもはや自然科学ではなく神の存在を信じる信仰である。
信仰は理知(理性/自然科学の考え方)と矛盾しない。むしろ信仰は理知を支えるものである。なぜならば、理知活動をする人間は理知をもった存在として神により造られたものだからだ。自然科学は神が造られた宇宙(万物)の本質を理知によって追究する人間の営みであって、自然科学の成果である法則は、自然科学の基本的性格からしてすべて相対的真理である。従って、神の存在を証明し、否定する根拠が自然科学から出てくることはあり得ない。然り、神を畏れることは自然科学のはじめである。
3. 神を畏れる生き方(神を信じる者の生き方<私の場合>)
神を畏れるとは、人間の力、知識を圧倒的に超える神の力を信じることである。それは理性的に考えることをせずただ神の業を信じることか。 No。 人間がどんなに理性を働かせても(天才、秀才の知性をもってしても)及ばない世界があることを認め、人間が未解明の宇宙の中に置かれた小さな存在の一つに過ぎないことを認め、信じることである。それは人間の力を矮小化することではなく、むしろ、神から与えられた理性(考える力)を最大限に働かせて未知の世界に挑み、神が創造した世界=自然のしくみを明らかにしようとする(サイエンスする)